伊藤セツ研究BLOG

このブログは、当初は、勤め先の教員紹介に付属して作成されていたホームページ。定年退職後は、主に、教え子たちに、私の研究の継続状況を報告するブログに変えて月2-3回の更新。
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2018年度が始まり4月が終わりにちかづいた。

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自由の身になって10年目の4月もだいぶ経ったが、この10年の総決算にふさわしい日々を過ごしている。

花々が一斉に咲きみだれ、書庫に入るのも寒くはない絶好の季節である。

この月、私は、菊栄の6章までを、D出版社の編集者に戻し、クラーラの「増補改訂版」(O出版社がそう呼んでいる)の全ゲラを点検しなければならない。膨大な全ゲラが、今日届きいよいよ実現に近づいている感覚が高まった。こういうことは、私の人生にこれまでもなかったし、もう2度とあることではない!

それに、市の公募市民枠での男女共同参画推進会議の「参加者」になって、26日までにべらぼうな分量の報告書等を読まねばならない。

町会の総会は22日に終わり、1年間、だから町会の仕事がどのように回ってくるかを知った。今年は「いろんな行事」から逃れられない。

 

「アベ政治を許さない」の声、「Me too」「With You」の叫びはかってないほどにたかまり、今や最低、毎週の「金八デモ」や毎月の「No War 八王子アクション」をさぼるなんて考えられない。「今だ!」「今こそ!」ではないか。

 

けれども体だって鍛えなければー。14年目に入った毎週の「太極拳」や「背骨コンディショニング」だって、やめることはあり得ない。実はすでに週2回をさすがに週1回に落としはしたがー。それで「水中ウォーク」をやることができないでいるのが気になる。「太極拳」をやるより前からやっていたというのにー。傾聴ボラは、心苦しいが月1回にしてもらおう。ごめん、○○シルバーハウスのみなさん!

その他、その他・・・・・。「くらし、平和、環境 八王子学術文化の会」運営委員・・・この4月、第5回バスツァーで五日市憲法が発見された土蔵に行った。奥多摩を散策しなつかしかった。

 

Yに、Yの書斎コーナーを借りた。彼は階下に、5年前に私と交代した10畳の書斎があるのだから・・・・。                       そういえばこの4月Yとの結婚52周年が過ぎていった!何もしなかった。みんな忘れていた。

かなりのページ数になるはずの「菊栄」と、増補して1027ページをさらに超えたクラーラの点検を同じ書斎コーナーで、同時進行やったら、どういうことになるか目に見えている。

2か所と書庫を行き来し、1年中で最も優しい季節であることに感謝している。こういう日々を過ごせていることに感謝している。

 

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| 近況 | 22:02 | - | - |
自由の身になって9年が終り10年目に入った!

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自由を得て(ということは給料のための労働から解放されて)、あっという間に10回目の桜が咲く季節を迎えた。

9年が過ぎ去ったのだ。10年を一区切りにしようと思っているから、それまでには今日からあと1年ある。

まあ、自分の研究については、ほぼ当初計画通りにすぎている。急旋回しているのは社会情勢の方である。

 

2009年に衆議院選挙で民主党が政権を得たと思ったら、そのさなかに、2011年3.11が起きた。

2012年には、自民・公明政権となり、2013年には秘密保護法強行採決、2014年には衆院選挙で自民・公明が3分の2を突破。2015年に戦争法強行採決、2016年には安倍内閣の集団的自衛権容認の「閣議決定」、2017年共謀法強行成立・・・・・

そして、改憲、モリカケである。

 

そういう流れのおかげで、この10年、予期せぬ展開がいくつかあった。それは、八王子市民としての自覚・行動が強まったということである。

その前から続く研究、趣味としての太極拳とスポーツクラブ通いは直線的にあいかわらず続いている。

 

・退職後新たにやろうとして準備したことは、傾聴ボランティアだった。1年の準備期間を経て、今年度で9年目に入る。

・最初は地域活動が大事と、里山ボランテイアもやっていた。上に書いた情勢の変化の中で、新たな市民運動が大きな比重を以て襲い掛かって来た。3.11がなにしろ、その起点だった。最初は毎週金曜日の官邸前デモ、それから反原発金八デモに転じて、もう200回以上になる。岩手、福島、チェルノブイリまで行った。

・次に2016年1月の八王子市長選挙に五十嵐仁氏が、市民連合の統一候補として立つことになり、2015年の終わりから八王子の学術・文化人が応援することになった。あの経験こそ決定的だった。その中で、宮澤賢治ひとり語りの林洋子さんを知ったのだった。ごいっしょに街頭演説までやった。選挙の後、「平和・くらし・環境 八王子学術文化の会」をつくって、洋子さんは副代表に、私は運営委員になった。彼女は魔女。私も魔女修行をして「魔女会」をしばしばやった。彼女の影響を多分に受けている。

・選挙のプロジェクトの共同代表だった橋本良仁さんと親しくなった。このことで、 JSA八王子科学フォーラムが再開され、私は世話人となった。

・毎月NO War八王子アクションがもたれ、ここでも演説する機会があり、街頭演説のむつかしさに今も悩まされている。

・八王子市政100年で、「八王子市歌」のジェンダーと平和の問題にぶつかり(北原白秋、山田耕筰作曲、1936年)、「市歌を考える会」に自ら飛び込み、「八王子手をつなぐ女性の会」の会員にもなった。そのながれで、八王子市の男女共同参画施策推進会議に公募市民枠で参加することになったのである。もとより、足元からの実践抜きに空回りの議論をしたくないという私の思いからではあるが・・・・。これをやらないと女性問題の研究者として何もわからなことになるのではないかと―。

 

3月31日から4月1日、菊栄の、原稿の最終調整をやって過ごした。第2章までー。4月1杯に第6章、5月の終わりに第10章・終章・付属物まですべてを最終原稿で出すことになっている。

そればかりではない。今週の終わりに、クラーラのあの恐ろしくも嬉しいゲラが降りてくるはずだ。

想像のつかない多忙さが待っている! それにこの情勢だ! 3000万人署名は私の目標まで行っていない。

 

解放された10年目を、こういう状態で迎える。有難いことである。

何でこういうことをしなければならないのかということも多いけれども、やれることはやらなければならない。

まあ、10年が終るには、あと1年! この1年に掛けることは多い。

いつまでもこういう状態を続けることができるとは限らないからー。11年目の事は1年後までに熟成してくるはずだ。

 

 

| 近況 | 00:55 | - | - |
ちょっとしたインターヴアル

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家も築36年ともなれば、このとおり。何度目かの修復中。今回は主に屋根(2度目)。あと10年くらい住める程度でいいからと、安くしていただいたが、この10年が曲者。予測もたたないことをきちんと考える時間を持たないのでテキトーである。

 

3月8日に、出版社にクラーラ関係をもろもろ提出してきて以来、3月24日に、菊栄関係が本格化するまで2週間余り、毎年家計関係を見直す確定申告の締め切りをはさんで、稀に見るインターバルである。その合間に書斎コーナー、書庫を、次の仕事がしやすくなるように片付けている。2階の書斎コーナーに運んだクラーラ関係の資料を何度にもわたって1回の書庫に運び、次の仕事に備えないと、もうメチャクチャでお手上げである。もう何日もやったが、まだ終わらない。手のつけようもないという感じだがー。

 

 

今日は、3.18第32回 No War 八王子アクション。3分間スピーチ(分野:女性問題)が当たっていた。次の事を云おうと思ったが(約1000字)、3分は瞬く間に過ぎるので、飛ばしたり、忘れたりではあったが、とにかく言うつもりだったことを書いておく。

 

3月は、ビキニデー、東京大空襲、3.11その他忘れてはならない歴史的大事件が起っている月ですが、3月8日が1977年に「国連の日」となった「国際女性デー」であることを御存じの方も多いでしょう。戦後3月8日から1946年に女性が初めて選挙権を行使した4月10日を結んで、日本の女性は、民・官両側から、男女平等や平和のための多くの行事が行われてきました。

今日の3.18八王子アクションは、この3月に行われるわけですから、私は「国際女性デー」と結びを付けてお話したいと思います。

今年3月8日には、アントニオ・グテーレス国連事務局長が国連広報センターを通じてメッセージを発し、世界中の主要メディアにもこの日への注目を寄稿しており、各国で女性が行動を起こしています。その3月8日、八王子では女性の行動は特になかったと思いますが、東京レベルで見てもいくつかの大きな催しがあり。東京では、長い伝統を持つ「国際女性デー中央大会」や、昨年から始まった「ウイメンズマーチ」、女性に関する二つの法改正(夫婦別姓、政治参画)についての国会内集会、他にも中小の集会がもたれています。

日本の特徴は、メインスローガンが、「改憲ストップ!核兵器をなくそう」「戦争ではなく平和を」だったり「武器よりごはんを」だったりで、サブスローガンが、女性問題を含むあらゆる領域にまたがる特徴があり、また、「日本政府への決議案」等をみても、日本国憲法を遵守し、平和でいのちとくらしを守る政治が、ジェンダー平等実現とともに、数10項目にわたり読み上げるだけで、3分を優に超えます。今国際的に起こっている、セクハラやDVに対するMe too(私も)、タイムズ・アップ(もう終わりにしよう)、ゼロ・トレランスの運動等女性固有の要求に加えて、No War 八王子アクションで毎回読み上げられるアピールの内容が丸ごと入っていると言っても過言ではありません。

私は、国際女性デー史を研究テーマとしているものですが、日本の歴史においても、1923年に第一回の催しがもたれた時、無権利だった女性は官憲によって蹴散らされ、それ以降戦前においては、非合法化にあり、戦後においても、GHQの占領政策の転換の中で、中止に追い込まれるなど、女性の人権の要求・尊重は、「改憲ストップ!核兵器をなくそう」「戦争ではなく平和を」と深く結びついており、来年3月ももしNo Warアクションがもたれるときは、「国際女性デー」のマーチと合同でやりたいという思いがあります。いかがでしょうか。

 

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| 近況 | 21:34 | - | - |
2018年の国際女性デーに、出版社に一式もちこんで−

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我が家に、36年前に引っ越してくるその前からあった梅の木が白い花をつけている。3月8日国際女性デー。

この日の名称「国際女性デー」は、私の研究の二つ目のキーワードともなって、クラーラ・ツェトキーン研究と深く結びついている。

今年の3月8日を、増補版のまえがきの日付としたいと思ったため、どうしても、昨年12月19日から手掛けた仕事をこの日に終えなければなかった。3か月弱だけれど、本当は気が遠くなるような日々だった。1027頁余りの本に、300枚ほど付箋を挟んだ。付箋は当初もっとついていたが、一つ一つ解決しながら、はずしていって、なおかつ残ったものの数がそれだからたまったものではない。公のものでは、社会政策学会学術賞の選考の理由、8本の書評だが、私的には、数十通のメールや手紙・葉書によるご意見、疑問、そしてもっとも内輪では、親友:故坂西雅子氏のたれもが気が付かないような細かな指摘があった。 

          

「研究って何?」。「学術賞って何?」。50年の歳月+5年って何?

 

あいにくなことに、3月8日は朝から雨が降っていた。出版社で社長とKさんとに会った。あの出版社は、いい研究書を出すことが心底好きなんだなと思った。まあ、私もこの気の遠くなる仕事が本当は好きなのだ。クラーラ・ツェトキーンをやっていて、日本で最初の国際女性デーを挙行した山川菊栄研究にバトンタッチし、二人の女性は1933年と、1980年に没したが、二人が世界と日本でかかわった、国際女性デーは、1977年に国連の日となって歴史の中をどこまでも流れていく川となった。人は死ぬけれど、国際女性デーは人の寿命と関係なく歴史の中を進んでいく。しかもアメリカ社会党ー第二インターーロシア革命ーコミンテルンとその各国支部―国連―各種フェミニズム・市民運動などが関わって、大河となって、さまざまな女性の進歩を飲み込んで、地球上ひろがっていく。

 

国連に繋がったのが決定的だった。私はそのことを非常に意味あることと考えている。地球上での一段と規模をひろげた国際女性デーはインターネットの検索でももはや追いつかない。

今年の国際女性デーも、国連事務総長アントニオ・グテーレスがメッセージを出した。UN WOMENも早くから広報につとめている。東京では、ひとつは、戦後1947年から紆余曲折を経ながら続く国際女性デー中央大会実行委員会が、中央大会をもち(私はこれに出た)、ひとつは、二度目になる東京ウィメンズマーチを国連大学ー渋谷で実施した。前者には600名、後者には750名が集まったと主催者は報告している。「中央大会とは何か?」。何の中央?

 

この種の催しと、女性団体の関係についても、私は、2003年に『国際女性デーは大河のように』を出したときから(それ以前から)ずっと関心があった。あの本をだしてからもう15年になる。K出版社から出したので、この本のことも話題になった。

 

この日、ドイツのマルガ・フォイクトさんから「国際女性デーおめでとう」のメールが入った。

 

新しい運動の形式と従来の伝統的やりかたとの接点はどうするのかとか、いろいろ考えなくてはならないことがつきつけられる。

私の最後のテーマはもう予測されている。

 

 

 

 

| 近況 | 02:50 | - | - |
2018年度「八王子男女共同参画施策推進会議」公募市民募集に応募して

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JR八王子駅前北口から5分、この建物「クリエートホール」の8階に、八王子市市民活動推進部男女共同参画課八王子市男女共同参画センターがある。八王子市は、「八王子市男女共同参画都市宣言」や「男女が共に生きるまち八王子プラン」を策定し、その進捗状況や見直しに、「八王子男女共同参画施策推進会議」(学識者6名以内、公募市民4名以内)を構成して意見を徴収している。今年度の募集要項は、2月2日締め切りで「私の考える男女共同参画について」と題する800字以内の小論文提出で、一次選考書類選考が行われ、通過したものに2次選考のための面接を行うという手順であった。1次選考で出した800字の小論文は下記のとおりである。

 

                   私の考える男女共同参画について           伊藤セツ

 「男女共同参画」とは、1999年に制定された「男女共同参画社会基本法」にあるとおり、男女が互いに人権を尊重しつつ、能力を十分に発揮できる社会参画のことと考えます。その根拠は、日本国憲法第13条と第24条の規定を根底に置くものです。私は日本で女性が初めて参政権を持った総選挙(1946年6月)に、母が投票に出かける時、小学校2年生で、母と一緒に投票場まで行ったことを鮮明に覚えています。子ども心にも、新しい社会を生きることになった母の明るい様子が伝わって来ました。

 しかし、日本は戦後73年にならんとする今日でも、男女平等格差が先進国の中でも著しく大きく、その解消には、「男女共同参画」を上からのスローガンとしてではなく、まず男女個々人が、個人の尊厳と両性の本質的平等を自らのこととして明確に自覚して、家庭生活、職業生活、地域生活の場で、国や地方自治体の行政と一体となって歩調を合わせ、あるいは様々な場での当事者として発言していくことが必要と考えています。

 理想は、国連が掲げる完全な男女平等50/50 Planetではありますが、まず足元の私たちが住んでいる地域、自治体からの行動が大切と思います。私は八王子市民となって36年になり、子ども3人を、八王子市の小・中学校に入れ、高校は2人を学区内都立高校に入れて成人させました。しかしこの間、私がずっと他市に勤務していたため、70歳で定年になるまで八王子市民という自覚もあまりなかったのです。今、後期高齢者となって、遅ればせながら、男女共同参画に関する「男女が共に生きるまち八王子プラン」策定や評価にも関心が及ぶようになり、地に着いた、自分が住む自治体での、ライフステージのすべての段階に及ぶ可能な「男女共同参画」の実現とは何かを学びたいと考えております。

 

この小論で、一次選考を通過した私は、2018年2月23日13時〜30分、面接を受けるため、クリエートホール8階へ向かった。別のエレベーターでまた一階まで降りたところに面接室があった。男性を真ん中に両側女性の3人が面接員だった。こういう面接は私も何回も受けたが、最初の1963年「道教委」の教員採用試験、その翌年札幌K高校非常勤講師採用面接、1988年夏昭和女子大学採用時の学長・学監・教務部長面接が忘れられない。私が面接する側に立った経験は数え切れなく、学生・院生・留学生の入試、教員採用の面接等、年平均5回としても40年間で合計200回もやったと思う。

私が受ける面接は多分今回が人生最後の面接だろうと思うとなんだか愉快になって来た。

 

まず氏名、応募動機に続いて、女性の経済的自立、職業継続の支援方策、男性の育児休業、男女役割分業意識、DV、男女が共に生きるまち八王子プランをどう思うか、今地域でやっている活動は? ボランティア、女性団体の委員等をやっているかなど3人の面接員から10分ぐらいずつ聴かれた。応募動機のもともとは、「八王子手をつなぐ女性の会」のメンバーから勧められたからである。その他は自説を述べた。

 

八王子幽霊市民だった私は八王子市にあまりなじみがなく、有名でもないので、八王子市から講師料を頂く講演はこれまで3回やっているだけで、行政にはいっさい関わったことはない。

また、これまで、公的委員は、都立立川短大時代に立川市地域文化振興財団評議員、東京都の公衆浴場某(入浴料決定のための委員で名前を忘れた)委員、昭和女子大時代を通じて、国に関してはNWEC(国立女性教育会館:文科省管轄)のシソーラス策定委員、国際家族年委員、女性研究者ネットワーク支援プロジェクト委員、総務省の社会生活基本調査の非公式見解を述べる委員、学術振興会の科研費審査員、大学評価委員等、正式名称も忘れたその他委員をいくつかやった経験があるが、私は他の同業者と較べれば、公的委員の経験が少ない方である。これらの委員はすべて上からの指名なのに対して、今回ははじめての、市民としての公募応募だった。そのことが、興味津々で新鮮だった。

3月1日、合格通知が届いた。ああよかった。年10回、この4月から2年間の「参加者」(*委員ではなく参加者と呼ぶそうです:2018.3.28修正追加)となった。この経験はきっと私の研究に新たな視点を入れてくれるだろう。

| 近況 | 01:47 | - | - |
最後のあがきが長く続く!あと少し!あと少し!

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2月も終わりの日である。せめてこの日に完成させようと思った。しかし、問題が発生し、なかなか解決できない。

深夜、階下の書庫にもぐりこむ。寒い。長時間探してもここには目的物がみあたらない。次に、元書斎としていて私が使っていた、庭に面した和室、今は改築して一部書庫にしてYがたてこもっている場所、引き戸式3段の一番奥までさがす。引き戸式書棚の上から本が引っかかってばらばら頭に落ちてくる。Yの本だ。我が家に、断捨離だの生前整理という言葉はほとんど当てはまらない。

今回のようなことが起きることを予測して、頭が確かな限りは、50年以上前のものも、すぐ取り出せるようにしておかなければならないからだ。

どういうものを、探すはめになっているか、二つ書いておこう(もっと、もっとあるがー)。

 

一つは、約900ページに及ぶ本文であるが、私は本文は、完璧に引用注を付けてトレース可能にしていたはずが、何と肝心なローザからクラーラの手紙の一つに全くそれがついていないなどということが判明した。おまけに、それは、ローザ手紙集の5巻にある筈なのに、そのコピーのファイルが見当たらないのである。2月も終わり。今日という今日、意を決してついに探しあてた。その安堵感と言ったら・・・・

 

二つは、文献目録である。クラーラの女性問題に関する論稿のリストを巻末に載せたが、Gleichheitや他の雑誌に書いたものは、極めて煩雑で、連載の場合、名称は同じでも、連番と掲載号、ページ、年月日がきちんと対応しているかの確認は、殆ど気が遠くなる思いがするものだが、それを間違えているのである。これらは、著者は直感でおかしいと分かる。それが、書庫にあるとはかぎらない。遠き日にベルリンやライプツィヒのアルヒーフで書き写してきたものだったりすると、絶望的になるが、古いメモや、研究日誌をてらしあわせて、何とか、完璧でないまでも、正確な範囲に近づくことができる。しかし、できないことだってあるかもしれないのだ!

 

もう書きたくない。書庫の中で1980年代初頭の、ドイツ、オランダでのことをいろいろ思い出して、もう二度とあの頃に戻れないことを云い聞かせて、・・・しかし、思い出に浸るのはまだ早い!

索引に至っては、特に人名索引はお手上げなのだ。基準を決める。最初カタカナ、次原語、それから生年と没年、カタカナだけで失礼という場合もあり得る。どういうときになぜ?「力及ばずでした」というのが本音である。

 

それらにくらべれば、年譜・年表は、意外にもまだましだった。

 

こうして、私は今、この作業の終わりに向かって最後のあがきをやっている。あとひとがんばりしよう。

ぼやけた写真ですみません。

 

 

 

 

| 近況 | 00:30 | - | - |
増補版準備の過程で想うこと

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東京の冬は空が美しい。遠くの山並みも見える。この頃青梅方面の山並みがとても気に入っている。

 

訂正増補版に取り組んで今日は丁度2ヶ月。仕事は一日中、何処にもいかない日にはかどり、そうでない日は一つの気づきでも、一つの解決でもよしとすると思うことにする。雪で「金八」が2度中止になったり、特養老人ホームから「インフルが流行中なので傾聴ボラは中止」と連絡が入って、はかどる日が増えていた。しかし、この間、ずっと首が正常でないし、フー吉も気がかりな状態である。それに家の屋根がどうした、水道がもれている、シャワーが壊れたその他その他時間がとられる日常がある。

 

そんな時また、師の別な言葉を思い出す。「あまり完璧を求めてはならない」と。

師というものは、何て有難いことをいうものだろう。なるほど、今のようなとき、完璧を求めすぎると、何もできなくなるのだ。

まあ、私が都合のよいように解釈しているのであろうけど。

 

これまで、何もできない日でも、一語でも、一行でも前に進めないと寝ないというスローガンでやって来た。

今は、これにいくつも加わるものがある。

どうしても行き詰まって進めない時は、放置して時を待つ。とか、意外な発見のおもしろさに出くわすことを期待して進めよう。とか。そうすれば、するすると進むときもある。

また、今はもうここまででよい。不足と感じる部分は、この先の研究にひきつがせようとか、私は私だから批判を全部受け入れて応えなくてもよい。拝聴だけはさせていただこう。とか・・・・・ むきにならずに手を緩めること悪くもない。とか・・・

まあ、これ以上全部書くことも無かろう。大いに頑張っても「完璧」という域に達するには時間の経過も必要なのだ。

ついこのあいだ、95歳までの「これから」を考えたのだから、時間は無いようでも、有るのかもしれない。

 

しかし、30分くらい経ったかなと思って時計をみると、1時間以上かかっていることがしばしばだ。時間の感覚もにぶってきたか!

とにかく、訂正増補版の「これくらいにしておこう」の「時」は近づきはしているものの、さらなる不十分さの量はますます増える思いがする。

 

この山並みの美しい季節にひとつの仕事は区切りがつくだろう。

 

| 近況 | 01:17 | - | - |
日本科学者会議東京支部女性研究者の集いでの講演からー今後の研究計画

 

2月10日、この集会で「私の研究史―これまで、今、これから」という題での講演をした。その際、「これまで」と「今」についてはいいとして、「これから」の研究を事を考える機会を得た。「これから」ということは、とりもなおさず私の80歳代以降の研究計画をどう考えているかということである。丁度70歳代の終わりの「今年」に、私は2つの仕事を発表する予定であるが、その先のことである。

 

クラーラの増補版の為に、「補章」を書いている過程で、徐々にそれが具体化してきている。それは、前著に寄せられた書評における批判と問題点の指摘の中から具体的に姿を現してきた。また、自分がよく知っている自分に欠落しているものを補う必要を強く感じている。

そのことについて、講演では次のようなことを云った。    
                                                                                           
 第一に、大学院時代に、新川教授が私に言った言葉通り、「クラーラ・ツェトキーンと心中する」を継続する。つまり、私が生きている限り、新しい情報をキャッチして、変化する社会の中でのクラーラの位置の動きを追い続ける。クラーラ没後90年=2023(私84歳)、 クラーラ生誕170年=2027年(私88歳)、 クラーラ生誕175年=2032年(私93歳)、クラーラ没後100年= 2033年(私94歳)、クラーラ生誕180年=2037年(私98歳)・・・におけるドイツでの動きを把握し、執拗に紹介、発信し続ける。これをライフワーク(=心中)とする。私がどこまで行って終るかはわからない。しかし、その中で、現実の女性問題との繋がりを掘り下げることである。私は過去の理論との断絶を探すやり方はとらない。
                        
 第二に、すでに書いてきた国際女性デーの歴史を新しい情勢に対応させて書き続けるということである。つまり、国際女性デー110年=2020年(私81歳:これからではこれは時間的に間に合わない!)、国際女性デー120年=2030年(私91歳)・・・どうしよう!無理に近い。それより、日本で国際女性デーを始めた1923年から日本での100年なら2023年(私84歳)可能性がある。山川菊栄研究で日本の女性デーについては、この間かなり追ってきているので、まとめることができそうである。国際女性デーは、大河のように流れていくから、すでに今世紀に入っても新しい解釈や伝説が加わっている。面白いではないか。アメリカ社会党、第二インターナショナル、クラーラ・ツェトキーンに起源をもつこの日の、新たな歴史の中での蛇行と増幅を私のやり方で追いかけて検証していきたい。
                                             
 第三に、退職後考え始めた「非労働力と地域」の問題と、かっての私の「生活・女性問題をとらえる視点」を結び付けて、80歳代を含めた、80歳にならなけれなわからない当事者視点での「女性・生活問題をとらえる視点」を再考することである。その際、私が非労働力人口の仲間入りをした後の、地域活動(町内会含む)・傾聴ボランティア・市民運動(地域での市民連合の諸経験加)への参加XX年の経験から、(生涯家計費・生涯生活時間・住み処・孤独と連帯・人間の尊厳と貧困・人間の安全保障、ここに未来社会論を含めて、これまでの理論的総括を書くことである。80歳代を生きる「一介の市民」の当事者視点でなければ、かつおこがましいが私でなければ誰も書けない両性の生活問題の理論を書きたい。
その際、この三つの柱をつうじて、すべてこれまでの私への批判論点に答えて、私の理論的弱点を補って、現状の改革から、未来社会への展望を考察したい私は、このことこそ、「クラーラと心中せよ」と言われた師の言葉の真意であり、それがライフワークなのだと思える。

しかし、加齢による諸問題の発生は突発的で、予期せぬ身体的不具合が理由なしに起こり得るだろう。判断が難しいが、その時はその時!

上のプランを示す表は、講演でスライドだけで示し、配布資料には入れなかったものである。

 

Ora Orade Shitori egumo

 

| 近況 | 00:25 | - | - |
今日は70歳代最後の誕生日

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   今日は誕生日。ブログを書くときこれまで誕生日にたまたま書いていたとしても、殆ど意識したことはなかったのに、昨年ぐらいから意識し出すようになった。

 そう、今日は79歳の誕生日。70代最期の誕生日。なんとこの写真の作業の真っ最中。丁度4年1カ月前、クラーラ・ツェトキーンのこの本が世に出た後に、正誤表をとりあえずこのブログに公表するまで数か月おちおち眠られぬ夜を過ごしたものだった。こういうことは決して初めてではない(1984年の本の時に嫌というほど経験あり!あの時は、約500頁。7校までプロの校閲者と首っ引きで校正したはずなのにであった)ので、「まあこういうものだろう」と予期しなかったわけではなかった。今回は1000頁を超えたからあの時の2倍以上はあってもしかたないと覚悟していたはずだった。

 

 昨年、故人となられた宮澤賢治研究者の原 子朗氏が、『新宮澤賢治語彙辞典』(私の本と同じくらいの厚さだった)を旧版から10年を経て1999年に出されたときの「序」に次のような文言がある。「思えば旧版発行の翌日から、私は不眠症に襲われ・・・・。項目の説明の不備、不適切、錯誤、等々への不満足がしだいに募り・・・」云々。原氏のは語彙辞典であるから、私の伝記的叙述とは異なるジャンルではあるが、私自身、本文の目を疑うような誤記、不統一、転換ミス、人名索引の不十分さには、言葉を失った。高校・大学・その後ずっと親友の故坂西雅子さんが、あのときは元気で「内容は面白い」と旧スピードで読み切って、毎晩、メールや電話で、不具合な箇所を知らせてよこし、私は彼女に励まされて、立場逆転で正誤表を作ったものだった。彼女のどこにあの能力が潜んで居たのだろう。あれから4年あまり、そして彼女が世を去ったのは2015年の春。今回の増補版には彼女への謝辞を何よりも書かなければならない。お誕生日には必ずカードを交わしていた。より高く生きようと高校時代から励まし合った。私は生きている。そして、どん底に落ちた思いの不備を彼女の力を借りて訂正し、この4年の動向を加筆する機会を得たのだ。あの時いただいたたくさんのメール、書評、をもう一度心を平らにして読み返してみよう。

 

 それでまた、私は、黙々と作業をし、いろいろ気付き、付箋の数が増え、補章の案を練っている。それはまた心はずむことでもある。この作業が本当に結果として世に出てくれたとしたら何て有難いことだろう。このことに関しては何事も起こらずそうあってほしい。

 定年退職後9年がもうすぐ終わる。70代最期の年には、年度が改まると、町内会の区長(班長ではない)の役が回ってくる。地域・市民運動とはまた異なる町内会をもっと知る必要があると思っていたので、自発的とは言えないがおそるおそるやってみよう。Yではなく私の名前で登録した。いろいろな意味で大事な1年にまた新しい友人もでき、何かが起こるだろう。楽しみなことである。

 

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本文「付属物」の美学にあこがれて

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ドイツ語の学術書を開くだけでほれぼれする。アルヒーフ検索の銘記、落ちのない略語の提示、整然と並べられた文献リスト、そして索引。 索引のついていない多少とも専門的本は、最近は日本でも減ってきてはいるが、人名索引、事項作員、地名索引を見やすく、詳細に分けた索引を持つ本は、学術書でもあまり多くはない。それに私の関係のものでは年譜・年表が不可欠となる。私は特に年譜と年表に凝っている。

 

私は5年前、ドイツの本を上回るような、きちんとした本を出したいと思った。

しかし、できなかった。1984年に出版した学位申請論文より、5年前の本は一段上回ったものにはなったが、とても満足できるものではなかった。もっとも基礎的なところ、かつ許されない大事な箇所で、あまりにも単純明白な間違い、誤植、不統一が目について、それこそ、刊行本を手にした瞬間から、後悔におそわれて、耐えられない思いをしたのである。その時、今は亡き親友が先頭に立って私を激励し、その恐るべきエネルギーに支えられて正誤表づくりに数か月をあてた。

 

それなのに、その本は、もちろん正誤表を前提としてではあろうが(ブログに正誤表を公表して、何とか読者に被害が及ぶのを最小にくいとめる努力をした)、丁度出版後半年で「2013年第20回社会政策学会学術賞」を頂くこととなった。有難いことであった。

1984年の時も、同じようなことでやはり気も狂わんばかりの半年後に学位を頂くこととなった。 でもこの本の場合は、2年後に2刷りがでたのでどれだけホッとしたかわからない。

 

2013年の本は、ずっと心収まらぬ日々を過ごして、よくも、本文のみならず、付属物、特に索引などにこだわった本をだしたいと、生意気なことを思ったものだと、自分の甘さ、傲慢さを深く反省した。

 

今、5年ぶりに、正誤表を組み込んで、5年後の新しい進展も入れて新しい本にする機会が訪れた。

この機会が与えられたことに感謝しながら、当然また苦しんでいる。苦しまずには何物も生まれないことは経験済みではあるけれどー。

人名索引がもっとも難航する。片仮名書きに原語を入れて、生年・没年を書き込もうという試みをすべての人名に及ぼすことができず、中途半端なのである。無謀な試みだと知りながら、可能なところまで追ってみようという思いは捨てられない。ドイツ一国の人名ではないのだ。

時期的に第1から第3インターナショナルを扱っているのだから横のひろがりをみても、時間的長さを考慮しても当然である。          きちんとした限定のルールを明示して、やれるところまでやってみようと重い本を広げ、小さな文字の人名辞典を追っていく。          地名索引を分離・独立させるという「やり方」のおかげで、地名も目立つようになり、その地を踏んでいない場合、たじろいでしまう。だからできるだけ、これまでその地名の場所には行くように計画し、現にその場にこの足で立とうと努力した。しかし、当然ながら全部というわけにはいかない。行かなかったところの地名を索引に入れてはならないという規則などあるわけはないから割り切るしかない。

 

2013年にこの本を出してから、Die Gleichiheit の全巻のコピーを手放しただけで、他の資料は全部まだ手元にある。

Die Gleichiheit の場合も、重要な部分のコピー、それに関するメモは別に分けておいてあるので問題はない。

 

気の抜けない、緊張の毎日が続いているが、それは私にとってかけがいのないすばらしい時間なのだ。

そしてまた今更ながら多くを発見して、研究の底なし沼の恐れをいやというほ味わわされている。

この「恐れ」こそ貴重なものではないだろうか。

 

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