伊藤セツ研究BLOG

このブログは、当初は、勤め先の教員紹介に付属して作成されていたホームページ。定年退職後は、主に、教え子たちに、私の研究の継続状況を報告するブログに変えて月2-3回の更新。
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ついに<本物スマホ>いじくりまわし中

 

最初に、携帯電話を使い出したのは、前世紀1998年のこと。そしてそれに最初の電話を受けたのは、なぜか中央大学の図書館の書庫で、調べ物をしている時。長女の夫からの「産まれました。@@@@gの男の子。元気です」だった。

あれから18年以上が経って、その間、携帯電話が3代目を経て次を買い換える時、「らくらくスマホ」なるものにした。定年後の事である。男の子は、選挙権を行使できる年齢となり、今春高校を卒業した。彼は言った。「スマホは年寄りのためにあるようなものだ」と。「そうか。今のうちに彼に操作を教えてもらおう」と、「らくらく」でない方の「本物スマホ」に手を出した。18年間に5代目である。彼の予備講習は、いままでの誰よりも親切でやさしい。数日後の本格講習が楽しみだ。今は、やみくもにいじくりまわしている。

 

PCの方は、タイプライターからワープロ専用機の経験なしに、1985年から立川短大の研究室で導入し、たしか「ユーカラ」というソフトからはじまった(メールは90年代に入ってからと思う)。それが「一太郎」となり、1990年代、昭和女子大に異動した初期に、留学生からの要望で「Word」に変えた。フロッピーの大きさも変わり、PC自体は何度買い換えたか覚えていない。大学がPCの新しい機種にするごとに、個人でもそれに合わせてノート型を購入した。ノート型パソコンはどこに行くにもついて回り軽量になった。

 

時々大学コンピュータ室の講習会もあったが、とにかく、何が何でも必要に迫られて自己流に覚えていくしかなかった。

仕事の連絡は、皆メールとなり、学生の卒論、修論、博論指導も全部添付ファイルでやりとりするようになってから、それこそ、大げさに言えば、夜も昼もなく、盆も正月もなかった。1冊の本をフロッピーに入れて渡して作成するようになったのは、私の場合1990年直前だったように思う。原稿をデータで送信するようになったのはそのかなり後のことだ。

社会政策学会がホームページを持ち、学会の運営がメール中心になっていったのは、私が代表幹事になる前後だから、前世紀も終わりに近づいたころだったろう。

ホームページは、大学の教員紹介に接続するもので、独自のものをもったことがなかったが、それをブログ形式で残している最初は2004年で、今書いている「研究ブログ」である。これは、遅い方である。「なるべく早く閲覧者がアクセスできるように」と注意されてからのように思う。

 

フェイスブックは、まったくやる必要も感じなかったし、やりたくなかった。その考えを打ち破ったのは、退職後の市民運動である。

野党・市民運動統一八王子市長候補を応援する必要からであった。手探りで短期間にマスターしなければならなかった。

思いもしなかった2016年の1月のことだった。2016年を通じて、FBにはかなりの時間を費やしたと思う。試行錯誤しながら自己流におそるおそるだったから余計そうだったー。今執筆中の本の2章分に相当する時間を当ててしまったという思いがある。

どういうことだ!今やっている研究を遅らせてしまってますます残余時間は少なくなったが、生活時間研究にも新たな課題が生じているなと思う。

 

そして今、本物のスマホを手にして・・・・・・。これに時間をかけたくない。

でも操作をすいすいやるまでに期間がかかりそう。でもみなさん、すいすいやっている。

18歳の彼ばかりでない。その後この世にあらわれて4月から高校生になる10代1人と、今年10代になるまだ本物スマホを持っていない2人の孫まで、私の手元をのぞきこんで、ああだ、こうだと教えてくれる!

「何で、あんたたちわかるの?」「すぐわかるよー」

電車のなかを見回すとみんなやっている。みんなできるものなんだ。車の運転を覚えた時と同じ思いだ。すごいなあ。

いまのところ、みなさんがえらくみえる。

 

写真の梅は、新しいスマホで写して、はじめて送信したもの(我が家がここに引っ越してきた前からあった樹齢不詳)。

昨年、砂漠化させた庭に残した、2本のうちの1本です(もう一本は引っ越してきたときに植えた柿)

私の「本物スマホ」時代がはじまります。

 

 

 

| 近況 | 13:22 | - | - |
総務省 統計ユーザーのニーズに関する調査 に回答して

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 総務省の「統計ユーザーのニーズに関する調査」が、今日3月3日締め切りだった。前に何度か出したことのあるパブコメもいつもぎりぎり。今回は、PCからメールが送信できず、プリントアウトして、切り貼りしてFAXで送った。無事着いたかどうか?

 

長い間、私は政府統計のユーザーだった。私の研究テーマは女性問題なのだが、就職の必要から1966年の大学院の博士課程から家計統計と取り組んで、併行して論文を書き、1968年、北星学園女子短大に家庭経済と生活統計担当で職を得た。

 都立立川短大に異動してからは共同研究で生活時間調査と取り組み、社会生活基本調査が実施されるや、そのユーザーともなった。女性労働問題も研究していたから、労働力調査、就業構造基本調査のお世話にもなり、院生指導では農業統計ともまじめに向き合った。

 統計の専門家ではないけれど、政府統計のかなり専門的ユーザーであったので、経済統計学会に入会し、さらに国際政府統計学会(IAOS)にも入って、1992年に、フイレンツイエでの国際会議でGender Statistics に出会ったのである。

 

 退職後とりくんできたテーマは、ドイツそして日本の女性問題の歴史研究であるので、政府統計から離れていたが、ライフステージの後半、「高齢者傾聴ボランティア」などにも手を出して、本当はこういう「非労働力」の経済活動を把握する統計が必要だと感じるところもあった。

 

 前の男女共同参画に関するパプコメ等、メール送信して、コピーが散逸して分からなくなってしまったものも多いので、今回のは、ここに記録しておきたい。

 問いは1〜6まであったが、関心のあるもののみ回答してよいというので、1、4、5、6、に答えた。

 

問1 国の統計等の内容に関する提案・意見・要望

(1)調査対象が個人である場合は、性別が明確になるように(LGBT配慮の欄も「その他」等で設けたうえで)、集計を別々に行うことを基本としてほしい。

理由:性別統計の充実の際、最近可視化されてきたLGBTについての正確な数値が存在しないのは問題。

(2)調査対象が個人である場合で、年齢を括って公表する場合は、高齢者の段階を従来の括り以上に細かくして、上限を100歳以上としてほしい。例えば60-64歳、65-69歳、70-74歳、75-79歳、80-85歳、86-89歳、90-95歳、96-99歳、100歳以上。

理由:高齢化が進み、高齢者の定義も見直されている今日、きめ細かな高齢者対策立案に必要である。                                             (3)調査対象が世帯である場合は、異性間の法律婚/事実婚/非婚姻関係別に加えて同性カップルの結合の存在を考慮した適切な表現(例えば同性婚)でのデータ処理と集計を行ってほしい。

理由:同性カップルの結合も把握しなければ、種々の問題点に対する適切な政策が不可能と思われる。

(4)調査対象が世帯である場合、「世帯主」という用語を適切な語、例えば「世帯代表者」に変えてほしい。

理由:今日主たる家計維持者が、存在しなかったり、入れ替わったりすることが多いので、長い間、稼ぎ主や、男性に裏打ちされて来た用語を変える必要があると思われるから。

 

問4 民間による政策提言の促進のために効果的な国の統計等の改善方策等に関する提案・意見・要望

・新たな統計の作成・提供(これは調査側が例示していたものに従ったもの

 労働力統計に対し「非労働力統計」「非労働力の経済活動統計」のようなものが必要と思う。

理由:主婦・主夫等による非就業、あるいは定年退職後または何らかの理由による非就業者の「非労働力人口」の経済活動が、今日盛んである。各自治体ごとに異なり、多くの経験が積み重ねられていると思うが、これらの経験を、国の統計として全体的に把握することができれば、民間による政策提言に応用できると思われる。

 

問5 国の統計等の内容や提供に関する要望・苦情への統計作成機関の対応状況及びそれに関する提案・意見・要望

 在職中、研究と教育の必要から、何度も質問もし、要望や苦情を述べた経験がある。社会生活基本調査については、非公式の委員会メンバーにしていただいて、意見を述べ徐々に改善されたと思っている。家計調査については、はかばかしい改善は見られなかったが、統計提供者側の諸事情の説明を聴いて、当方も学習させられ、教育に生かすこともできたことは感謝している。

しかし、質問にたいしては、窓口の担当者からは即答は得られず、多くの係りの手を煩わせ、時間がかかった経験もある。

学生・院生が直接質問する場合もあったので、願わくは、さまざまな統計ユーザーの疑問を想定して、担当窓口が適切な回答ができるよう、教育が徹底されていることが望ましいと思います。

 

問6 国の統計等の内容や提供の改善等を図る上で効果的な方策に関する提案・意見・要望 

 統計ユーザーの範囲はますます広がると思う。民間の断片的調査と異なり、国の統計は国民の税金による規模の大きいものであるので、信頼性、正確性、はもちろん、国際的にも高度な統計の品質をほこるものであってほしい。今回のような統計ユーザーのニーズ調査を、角度を変えて、継続して、どの層にどのようなニーズがあるかを統計生産者の国が的確に把握して、類型化し、統計職員の教育も徹底したものであってほしいと思う。

| 近況 | 23:52 | - | - |
山川菊栄研究からみる、戦前の運動・言論弾圧

 

2月22日、「強権国家ノー!宮澤弘幸先輩の命日に集う北大OB・OGの会」が、墓参のあと新宿の常円寺で開かれた。

私が今、山川菊栄研究をしているので、丁度良いと、表題のようなテーマで短時間で話すようにとの依頼を運営委員から受けた。

こういう角度からまとめてはいなかったので、私も「丁度良い」と思って引き受けた。

私は約3年ほど前から山川菊栄関係の「マイ年表」を作りながら研究を進めていたので、山川菊栄のつれあいの山川均の生まれた1880年から、菊栄の生まれた1890年を経過する、戦前1945年(治安維持法が廃止される1945年10月)までを、与えられたテーマにそってピックアップし、組み替えて新たな年譜・年表を作成した。

この作業のために、半徹夜2度して何とか9ポイントで8ページ、A4両面印刷で4枚の年譜にまとめて配布したが、元の年譜・年表は、8ポイント37ページのものである。

この写真を見るとみなさん、まじめに年表を見ながら話を聴いてくださっている。

 

この作業をやってわかったこと。

・締め切りがあって、必要とあらばまだ、全てを忘れて半徹夜ぐらいやれるんだ!ということ。

・今回の整理によって、山川菊栄研究で、これまで気付かなかったことに気付き、新たな発見があったこと。

・何という恐ろしい時代に宮澤先輩は北大に入ったのだろうということを歴史的位置づけのなかで確認したこと。

・今の「共謀罪」のたくらみのなかに、「治安維持法」が透けて見えるということ。

・「強権国家ノー・・・」のこの集会は、日本の反動化との闘いそのものであるということ。

 

まだ研究途中の報告が、宮澤先輩の無念を晴らす集いにこんな形で役に立つとは思わなかった。

急いで先を進めなければならない。今日の情勢の中でもっとクリアな結論を導き出さなくてはならない。

 

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| 近況 | 23:56 | - | - |
もう立春

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夕方の空。雲が美しい。八王子の冬は、特に私の住んでいる多摩丘陵界隈の、冬だけよく見える山々が、年々美しくなるように感じる。でももう立春。早いなあ。

仕事は、一行を書くために、たくさんの資料を見比べて、夜になると私のコーナーは、ごちゃごちゃになる。

前章は、すべてを終えてから読み返して、「だめだ」ということがわかり、全部分解してやり直したが、その次の章は何とか計画通りに進んでいる。それにしても新しい認識、新しい発見、そしてさらに調べなければならない事の気づきのなんと多いことよ。

今の季節は寒いので、階下の書庫に行くのさえおっくになり、手の届く範囲でなんとかならないかと、ずぼらなことを考えるくらいだから、図書館に行くのはもっと先延ばしで、調べようと思うものが溜まって、イライラする。これ以上はがまんならない。

 

それにしても2日連続で、一日中仕事に集中できるとよいのだが、なかなかそうはいかない。

一日に何か一つ、研究以外でやらなければならないことが挟まっていると、うまく転換がきかない。

これは、非常に贅沢で勝手なことだと思うのだけれど、最近それを強く感じるようになってきた。

それは、残余時間の短さを無意識のうちに意識するからだろう。でも生活しているのだから何かが挟まらなければおかしい。

生きていることにならない。

 

そのときそのとき、それなりにせいいっぱいやってきた。その時しかできないことをー。

今、2日連続でやりたいと思うのは、それを何度も繰り返したいと思うのは、多分「今」だからだろう。

誰も気が付かないこと、やらない(やれない)ことを、丁寧な作品で残したい!

それが何のためになると聞かれても、簡単に説明できないし、なかなか分かってもらえないと思うけど、私がやっているテーマは、社会的に大切だと自分は思っている。

創造。表現。自分といつも闘っていなくてはならない仕事。

孤独であるに決まっている。苦しまなければ完成しないに決まっている。

 

今さしかかっている所、それから終わりまで、大体あと半年くらいだろうか。その間、何事も起こりませんように。

心にいつも「テーマ」をいだきながら、普通の生活者らしく、あたりまえの顔をして生きていく。

 

 

 

| 近況 | 00:52 | - | - |
78歳の誕生日に思う

1月24日ここを通った。三軒茶屋に行ったのだ。

いつのまにか、20年も通勤した世田谷線三軒茶屋駅が新しくなっている。

それに八王子の北野駅からここまで来るのに、便利になったような気がする。

もう8年近くたったのだもの当然かもしれない。

 

退職後、二つ目の作品が山場を迎えている。これに手を付けてからそろそろ3年が過ぎ4年目に入る。

今日、1月25日、或る章を、ばらばらにして構成を変えた。

どうやっても座りが悪い。どんなに複雑な箇所を扱っているとしても、いるからこそ構成の工夫が必要だ。

何度でも書き換えて見るしかない。納得がいくまでー。

この章を確固たるものにしないと、その先ががたがたになる。

誰もやったことがないこと、誰も書いていないところを、私の視点で書こうとしているのだから試行錯誤は当然だ。

 

今やっているところに関係する1982年の自分の論文を読んでみる。

全然ダメと思っていたのに案外そうでもない、使えるではないか、あのときよくこんなに書き込んだものだということも再認識する。そして当然、今なら、こう書くという気づきもある。1984年のもの、2013年のものをみて、それぞれ精一杯書いたのだということもわかる。

 

2013年の作品、最後のまとめの時の錯乱も甦る。そして当然不足点も。これは、今の作品で補っておこうと思うところもある。

今日25日は、78歳の誕生日だった。78歳ってどういう年齢なのかわからなくなってきた。今、高齢者の定義を65歳から75歳にしようとしているらしいから、どっちみち高齢者であることはわかる。

今は75歳以上を後期高齢者と呼んでいるが、後期というのは終わりに近いという感じがして気に入らない。

でも女性の平均寿命まではまだ10年もある。しかし、健康残存生涯生活時間となると10年なんてないだろう。いやあるのかもしれない。

 

7年続けている「高齢者傾聴ボランティア」で、特養老人ホームに行って、考え込んでしまう。

100歳以上、90歳以上の方たちがいる。人間の発達=人間らしい生活は、どんなに高齢になっても、一人一人異なった形であるのではないだろうか。そういうことをもっと研究する必要があるのではないだろうか。

今の仕事が終わったら、1992年に生活時間研究で日本家政学会賞までいただいたことを活かし、福祉環境総論や老人福祉論まで担当したのだから、そういう問題に徹底的に取り組んでみたいという夢をもつ。

 

 

| 近況 | 01:30 | - | - |
2017年がすごいスピードで走り出す

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2017年になったと思ったらもう1週間が過ぎていた。この調子だと、すぐ年末が来るだろう。

年賀状から、元同僚や教え子のみなさんの近況を察して、考えさせられる。

 

そして職場に在った日々のことを思い出す。不思議だ。

なんで、あの時、人間関係で苦労したのだろう。苦労するいわれはなかった。

なんで、あの時、エクスクルージョンされたのだろう。エクスクルージョンされる理由も本当はなかったのだ!

 

今思えば、とにかくがむしゃらだった。そんななかで、何とか毎日を生きなければならなかったから。世の中、どこもそんなものだろうと思っていたから。考えているつもりで、目先のことで手いっぱいだったから。

 

今の社会、世界的規模で ”Post Truth”! うそ、いつわりで人をマインドコントロールする社会! 誰がついていくものか!

”Truth.” 私が「研究」と「連帯や運動」を大事に思うのはそのためだ。そして私は、それを「やれる」からだ。

「研究」というところは、人によってそれぞれ置き換わるのは当然! でも私には「研究」を上回る「やれる」ものをもたないので―

 

でもまた考える。もっと別な角度、あるいは高みから見たら、そんながむしゃらは、こっけいなことなのだろうかと。

「連帯や運動」今日でいえば「市民連合+野党共闘」は、断じて、そうではない。この抵抗運動は、他を犠牲にするに値する。

それが正念場である今年、いろいろな困難が待ち受けていることが予想される。

歴史に恥じない時間の使い方ができたと云えるように生きたいものだ。

もちろん「研究」の内容と進展においてもである!!

 

これが、新年の抱負です。

 

(上の写真、FBにも使ったものですが、長女が写しました。両側は私の孫たちです。山梨県北杜市。2017年1月2日。)

 

 

 

| 近況 | 01:08 | - | - |
2016年はあと1日

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クラーラ・ツェトキーンを脱稿してから、もう4年も私は、書斎を持たず、この家を建てた1982年からの、2階の狭い専用空間で仕事をしている。クラーラの欠陥の多い校正もここでやり、資料を次のテーマと徐々に階下と交換しながら、決して快適とは言えないごたごたの机でPCに向かっている。もう21歳にもなったフー吉は、3年前に20歳のタラと別れ、その半年後にラオスから来たまだ3歳半のイクラとも別れて、私の横でこうして日向ぼっこしている。猫と人間との交感!なんだかすっかりわかりあっているようだ。

 

2016年が終わろうとしている。今年は八王子市長選に明け、私も日本の歴史的市民連合の小さなさきがけを体験した。その結果「平和・くらし・環境 八王子学術平和の会」が生まれ、運営委員として、知事選や、古びた八王子「市歌」の問題を突く要請行動などをして、これまでの枠を超えた新しい友人もでき、目を見開くいろいろの体験をした。市民運動の必要からFBをやるはめにもおいこまれた。

これらの経験から私は、これまでにない希望がわくのを感じることが出来た。この情勢だというのに、光が見える気がするのである。みんな怒っているというのに、そう感じていることは事実なのだ。

市民連合と野党共闘、これこそ希望である。2017年の展開に私の部署で(研究も運動も)私なりの責任を持ちたい。

 

ところで、11月いっぱいを、1919年という年にかけてもすっきりしなかった研究は、12月に1920年代の1927年まで進んで区切り悪く新年を迎えようとしている。山川菊栄をやろうとして山川均を抜きにして進めることは出来ず、均関係の資料がスペースも頭の中をも埋めはじめ、全集だ、山川イズムだ、労農派だと、ぐるぐる回っている。自伝はとっくに読んでいるが、そう一筋縄でいくものではないことは当たり前だ。今年はあと1日しかない。ここで12月を終える予定ではなかった。

掃除だ、買い物だとしている時間は全くない!毎年欠かさずやっていた家じゅうのカーテンの洗濯はどうする?来年する!?

とりあえず、今読んでいる本だけでもあと数10ページ終えなくてはー。

 

 

 

| 近況 | 23:30 | - | - |
図書館・研究所

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外国の名だたるアルヒーフは勿論であるが、国内でも大きな図書館・研究所の資料室ほど心躍る場所はない。

行って来た日は、興奮している。

今日は、いくつかの課題を抱えて、メールで予約をして、大原社会問題研究所に行った。

1963年、私が研究というものを始めたときから、札幌から上京して、初めて大原社研を訪ねて以来、クラーラ・ツェトキーン研究の時も、今のテーマでも何度もお世話になっている。今の研究は、日本を舞台とした研究であるから、この研究所の蔵書は、とりわけ私にとって宝物のように尊くありがたい。

 

今年の11月は、1919年の<あること>を考え続け、終わってしまった。1919年を書くのに1か月かかっては、この研究はいつ終わるとも知れない。まだ不十分のままだが、いろいろ発見もあったので、1919年にサヨナラして先に行くことにした。

12月は、1927年、28年の事にかかり切り、年内終えようと思っているところまで到達しない。この2年はこの研究にとって重要な年なのだ。この2年のいろいろなことに引っかかってどうしようもないので、何とか解決して前に進めようとして大原社研に行ったのだ。

 

しかし、何という知の誘惑!いろんな資料を見て、あれもこれもに目がいって、あれもこれも知らなかったではないかということを思い知らされ、うちのめされる。

 

とにもかくにも直接目的だったものはコピーし、前回コピーを飛ばしたべージも何とか埋めた。

 

え?ここに何でクラーラのコミンテルンでの演説の翻訳があるんだ。知らなかった!しかも「上」だけ?「下」は?

「もうそれはいいから」と別な自分が私を引っ張る。

 

ここで仕事をしている間に、社会政策学会の会員と4名も出会う。会ってあたりまえの場所にいるから会うのだがー。

でも、ここを仕事場としている人はいいな。給料ももらっている。まだ現役なんだ!

いや、研究に終わりはないから、現役もへちまもない。

 

今やれることをやって終わりのない研究生活を黙々と続けよう。

そう思って、懸念事項だった資料をおしいただいて帰ってきた。

さあこれからじっくり料理しよう。

何かがわかる、そして何かがひらめくということは無上の喜びだから!

 

 

 

| 近況 | 18:42 | - | - |
続・マルガ・フォイクト『クラーラ・ツェトキーン 戦争の手紙』 ”Clara Zetkin  Die Kriegsbriefe"

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編者マルガ・フォイクト氏の「刊行に寄せて」を読むと、この手紙集の構想は、2007年にベルリンで持たれた、ローザ・ルクセンブルク財団主催のクラーラ・ツェトキーン生誕150年シンポジウム「クラーラ・ツェトキーンとその時代」に端を発しているとのことである。このことを私は初めて知った。このシンポジウムには私も出席していたが、その時マルガ・フォイクト氏には会ってはいない。フォイクト氏をはじめて知ったのは、2006年に東北大教授(当時)大村泉氏の紹介で、ベルリンのSAPMOでお世話になったロルフ・ヘッカー氏が、2011年再びSAPMOに行った私に紹介して下さったときであった。

 

フォイクト氏は、これまで、ツェトキーンの生誕100年を記念し、1957-1960年にかけては、3巻本の選集、1957年のレーニン、クルースプカヤとツェートキンの文通を冒頭に置く『レーニンの思い出』が出版され、その他1970年代に2点ほどの出版があるが、クラーラの手紙集のみが欠けていたことを指摘している。それは事実であり、私も不便を感じていた。

フォイクトによれば、ツェトキーンの手紙遺品は、1914年から1933年だけでも1000通以上の多くにのぼるが、本書は、第一次世界大戦100年にあたり、1914年から1918年までの戦争の時代に関する多くの学術的出版物を補足するものであり、本手紙集の中に、戦争に反対し平和のために戦ったクラーラ・ツェトキーンの政治的活動が反映されているという。まさにその通りであろう。そのあと、2014年に、別目的でドイツに行き、ミュンヘンの書店を覗いたことがあるが、1914年の第一次世界大戦に関する出版物が多く並んでいたのは印象的であった。

 

フォイクト氏は、本書は、国内では、ローザ・ルクセンブルク、フランツ・メーリング、カール・リープクネヒト、国際的には、イネッサ・アルマンド、アレクサンドラ・コロンタイ、へレーネ・アンケルシュミット、そしてアンジェリカ・バラバーノフへの、1914年8月から、1918年11月までの172の手紙と、27の葉書、電報等、その下書きやノートを収録したものであり、それらは、先に書いたモスクワ、ベルリン、アムステルダム、コペンハーゲン、ストックホルム、スイスのアルヒーフや図書館に在庫しているものから探し出したものであるといっているが、ローザ宛は1918年11月17日付け1通で他ローザ関係10通は秘書のマチルデ・ヤーコブ宛となっている。この重要な手紙は実は1969年に公表されていたと解説されていた。それなのに私は今回始めてみたのである。自分の研究の至らなさを思い知らされる。

 

編集方針について、フォイクト氏はこまごまとした説明を行っている。例えば、手紙の中での強調文字や、補遺の手書きの補充は、印をつけ、イタリックで表されるとか、手書きの手紙の判読できない箇所は[判読不可]と明記するとか、その他その他、多くの項目について説明している。もう気が遠くなるような仕事である。

この手紙集は、クラーラ・ツェトキーン研究にとって以上に、第一次世界大戦中に、反戦勢力がどのような努力をしたかを示す重要な資料を提供しているといえよう。

マルガ・フォイクト氏が本書の編集にかけた膨大な時間とエネルギーに敬意を表する。

今、私が勧めているのは、対象は日本。それなのに、まあなんと時間がかかることよ!!

| 近況 | 00:56 | - | - |
マルガ・フォイクト『クラーラ・ツェトキーン:戦争の手紙』の刊行を祝う

 

11月3日に、「送った」というメールがベルリンのマルガ・フォイクトから届いた。そのマルガ・フォイクト編『クラーラ・ツェトキーン:戦争の手紙(1914-1918)』カール・ディーツ出版(ベルリン、2016.10、559頁、€49,90)が、今日届いた。いかにもドイツの専門書らしい、重厚さ、私がいつも驚嘆し、2013年の拙著『クラーラ・ツェトキーン―ジェンダー平等と反戦の生涯』(御茶の水書房)にもその形式を取り入れようと悪戦苦闘した、見事な構成(この本の場合は、目次、謝辞、献辞、手紙本文と特殊な表現への補足説明と詳細な脚注、補遺、年譜、編者の刊行のことば、関連専門家のエッセィ、略語一覧、使用された当時の新聞・雑誌一覧、検索文書館一覧、地名索引、出現する人物の生年没年および解説とその索引、編者紹介)に接し、感激もひとしおである。

クラーラの手紙の初めての収録が、「戦争」に関わるものであったことは、第一次世界大戦から100年を経た今日、実に時宜を得ている。

もっとも「開戦100年の2014年に出したい」と、2011年ベルリンでフォイクトに会ったとき云っていたのだった。

編者のマルガ・フォイクトは、1953年生まれのスラヴ語・文化研究者でもとは専門的図書館司書。1990年まで、ベルリンの独ソ友好センター館内ロシア図書館の責任者だったという。両ドイツ統一後旧東ドイツの知識人と同じ運命にもまれながら、2000年以降はフリーランスで、さまざまな企画に携わり、ベルリンのクラーラ・ツェトキーン資料館の仕事に関ったりしていて、クラーラ・ツェトキーンの初めての手紙編集という大きな企画を単独で手掛けるに至った(詳細は別の機会に)。

内容をみると、クラーラの1914年の手紙31篇、記録4点、1915年の手紙62篇、記録3篇、1916年の手紙32篇、記録2篇、1917年の手紙、51篇、記録1篇、1918年の手紙32篇、記録1篇が収録されている。これだけの手紙を、フォイクトは、15の文書館(ドイツ7か所:ボンのフリードリヒ・エーベルトStiftung、カールスルーエ、ポツダム、コブレンツ、ハンブルク、ヴュルテンベルク、ベルリンSAPMO)、コペンハーゲン、ストックホルム、アムステルダムのIISG、モスクワRGASPI、スイスのベルン2カ所とチューリヒのスイス社会文書館、ウィーン)を尋ねて収録している。

私は手紙に注目していたわけではないが、上記の文書館のうちボンのフリードリヒ・エーベルトStiftung、ベルリンのSAPMO、アムステルダムのIISG、モスクワのRGASPI、チューリヒのスイス社会文書館は行っているが他は重なっていない(前掲拙著 913ページ)。

次に編者の「刊行に寄せて」を紹介しなくてはならないが、今日届いて今日の事で、手が回らない。フォイクトと私は、2011年以来メール友達であり、2013年に出た拙著で、フォイクトへの謝辞と、この手紙集の予告を、前掲拙著 911ページに書いてある。

フォイクトも、謝辞(13ページ)と、「刊行に寄せて」(489ページ)に、1990年以降だされたクラーラの伝記としてフランスのジルベール・バディア(1993)、ドイツのターニア・プシュネラート(2003)と、日本のセツ・イトー(2013)と私の名もあげてくれている。

夕刻、宅急便が届いた。なんと、私が別途発注していた、フォイクトの同じ本だった。5,692円とのことである。

2冊も同時に手にして、心の中はまた炎が燃える思いである。

 

下の写真は、2014年4月、寄贈した拙著を前に、左からマルガ・フォイクト、ザンドラ・ベイヤー(日本学)、アンネリーゼ・ベスケ(アウグスト・ベーベル選集の編者)。上の写真はマルガのメールの添付ファイル。書店に並ぶ自著であろうか。

 

| 近況 | 14:06 | - | - |
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