伊藤セツ研究BLOG

このブログは、当初は、勤め先の教員紹介に付属して作成されていたホームページ。定年退職後は、主に、教え子たちに、私の研究の継続状況を報告するブログに変えて月2-3回の更新。
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待ち遠しいという感覚の喪失

 

 

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冷酷にも6月は終わって7月も半ばに地近づく。このごたごたの机上を見よ。まだ同じところでてこずっている。

しかし、この難所を超えるのも時間の問題だろう。すこしづつなどというものではなく、この数日ほとんど机に向かっているにもかかわらず、進むことが出来ないのである。行きつ戻りつというべきか。認識は深まっている。

深まれば深まるほど、気づきも多く、「なぜか」と問う箇所もますます増え、今まで考えもしなかったようなところに手を出し、またそこの深みを知り、この程度で書いてはならない自戒する。全体のバランスもあるから一カ所にこだわって多くのページをさくのは好ましくはない。

毎日毎日、GHQの占領政策とその転換について、読み返しも含めて大著・中(?)著、1970年代ころのものからつい最近の研究成果まで10冊ばかり、さまざまな角度から追っていくと・・・・・。見えてくるものがある。

ページ数の問題でない。新たな関連付けと凝縮度の問題だ。「誰もやったことがないテーマでやれ」師、新川士郎は言ったではないか。この部分いつ終わるかもしれないとも思うが、ちゃんと終わりがくることもわかっている。クラーラ・ツェトキーンの時もそうだった。

このカーソルで、もう何百回(いや何千回だろう)も同時並行で年表をスクロールし、これまで書いた章の修正・加筆箇所を探し出し、右手人差し指はよく壊れない!かわりになぜか左手親指が5月から腱鞘炎になっているけど―。

 

もう何一つ待ち遠しいというものはない。待つまでももなくその日が来て、あっというまに過ぎていくだけだ。

そしてもっとも暑苦しい季節に差し掛かった。

 

冷房をきかせて終日PCに向かって背中を丸くしていると・・・。

背筋をのばすために、背骨コンディショニングに行き、気分転換に、プールに入って「水中ウォーク」をやってこよう!

今週それをやれるのは今日午後しかない!時 間を捕まえてやるべきことをやらないとまたあっという間に失われるから・・・

 

 

| 近況 | 10:55 | - | - |
6月よ、終わらないで!

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6月よ、まだ終わらないでー。しがみついて延ばしたい気持ち。だってまだ9章が書き終わりそうにない!

この6月は、ただでさえひどい社会状況なので時間が途中で切れてしまうのを知りながら、自分でいくつかの禁をやぶってしまったのだ。

6月10日に、小論2本締め切り。そのあと、1週間おき(17日と24日に)講演2回。

Blogなんて書いている場合じゃない。今月3回目だしー。それなのに書いている。という調子ー。

 

全回に続いて2回目の講演についてやっぱりちょっと書いておきたい思いがあってー。

地元の「八王子手をつなぐ女性の会」30周年記念の講演を引き受けてしまったのだ。

バザーをやるから何か持参せよとのことで、私は手芸もしないしジャムもつくらないから、今世紀に入ってから出した本を数種出品した。

 

意外なことに、買い手がついたのである。御茶の水書房から出した、あの重く、高い本が3冊。信じられない!

同じ出版社からの、かなり私の思いいれのある国際女性デーの本の3冊。嬉しい!

そして、わたしの現役時代の最後の『生活・女性問題をとらえる視点』(法律文化社、2008年10月、3300円)になんと11冊。びっくり!!この最後の本で学習会をしようという申し出もあってー。それでそれぞれの出版社に注文した。法律文化社の田靡純子社長がとても喜んでくれた。

 

この最後の本は、現役最後の半期、大学院博士課程の講義のテキストにした。私の思いのたけを入れ込んだ本だった。

定年後、「はたらく女性のフロアかながわ」の有志の方たちに呼ばれて学習会をした。

しかし、この本はわかりやすく説明するのはそう簡単ではない。それを地元八王子のみなさんの御希望でやることになるとはね!

今時、有難いことである。ただし、読者の信頼を裏切らないためには、これまでと違った様々な工夫をこらさなくてはならない。

 

そのためには、6月に終えようと思った、山川菊栄の第9章を今月(あああと3日もない)終えなくては・・・・。とはいっても・・・・。

 

戦後の占領下での菊栄をどう書くかは予想を超える難しさがある。占領と女性については2007年に女性解放との関係と女性労働改革との関係で2冊、2014年には、性政策との関係で2冊、立派な研究書が出されているし、近年GHQ研究も続続進められ、出版されている。

それらが、私のテーマとは関係づけられているわけでないのは当然で、どう関係づけられるかが私の問題意識にかかわっているのである。もうこれ以上は書けない。

 

6月、日本は騒然としており、加えて今都議選で少しも猶予がならない情勢である。

そのなかで密度の高い研究を手を抜かずに進めたいというのは、いささか無理をしているということである。

 

庭のあじさいがまっ盛り。柿は何百と実をつけて、もうすでに実るのを諦めて庭に散っている。なるがままに放っておくしかない。庭を見ている時間がない。

 

 

 

 

 

 

| 近況 | 22:37 | - | - |
昭和女子大学「近代文庫」と雑誌『番紅花』(1914)―光葉同窓会に招かれて

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私が昭和女子大学に勤めはじめた28年前この右側の古い建物の3階には、昭和女子大が誇る特殊コレクション「近代文庫」があった。

大正デモクラシーの精神を受け継いだ、詩人・文化人創設者人見円吉が集めたこの「近代文庫」のある大学に職を得たことは嬉しいことであった。さっそく閲覧させていただき、アカデミズムの香りに触れて、なぜか「もし嫌なことがあったらここに来て泣こう」とまで思ったものだった。それからしばらくして、「近代文庫」の蔵書は図書館に統合され、この建物には、教員の研究室が沢山作られた。

 

そしてこの大学での私の3度目の研究室が、「近代文庫」の受付があったその場所になったのである。その研究室で私は日夜働いた。

泣くどころではない。正面からも、振り返っても、写真など写す余裕などなかった。

定年後8年目にはいって、昭和女子大に行く機会があり、はじめてカメラを向けたのである。ああ、あの3階の真ん中。

 

6月17日、光葉同窓会からお声がかかってちょっとした講演をすることになったのだ。

講演の後、山川菊栄の最初の翻訳数編を掲載した『番紅花』(サフラン)という雑誌を見せていただくお願いをした。

「近代文庫」にこの雑誌が入っていることを数年前からつきとめていたのに、そのままにしてあったのだ。

とうとう対面する機会が来た。嬉しかった。何しろ定年後8年間で、この職場に来たのはこれが3度目だったのだ。

 

講演の題は、同窓会側の要望とかみあわせて<「今をこれからを」悔いなく生きたいー定年後も研究者として、市民として>というようなものであり、第一に、現職にあるとはどういうことか、第二に、定年後10年の設計をどうしたか、第三に、Post Truth といわれる今をどう考え、研究と市民運動をどう統一して生きていこうとしているか、についてお話しした。

 

3度目ここにきて、はじめて私はここが懐かしいと思えた。数え切れないほどの会議をやった「本部館3階大会議室」!

この職場で私は鍛えられた。3つ目の職場として、私を20年も雇って給料を払ってくれたくれたこの職場での日々の苦楽には感謝してもしきれないものがある。 ここでの20年があったから今があると思える。

 

光葉同窓会の役員のみなさんの、この大学の建学の精神が身についたホスピタリティにも敬意を表する。

お願いしておいた「近代文庫」所収の雑誌と、コピーをとっておいてくださったのだ。

そこには、今私がテーマとしている山川菊栄の最初(23歳)の翻訳(コロレンコ、カーペンター)が、待っていた。

確認できてよかった。とても有難かった。

 

終ってから、教え子で研究者になった2人と久しぶりにずっとお話しして帰ってきた。まさに「現職にある」バリバリの2人と―。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 近況 | 01:39 | - | - |
2017年6月、おそらくかってない日本の政治情勢の山場で

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家の玄関の横に、ほっておいて自然と芽が出たアサガオが花をつけ1本だけ残っているツツジが咲いている。

 

この間、珍しく6月10日締め切りの依頼原稿を書いていた。短いものだが、『日本の科学者』9月号に掲載されるはずのものである。

『資本論』第一巻刊行150年記念の特集に、「クラーラ・ツェトキーンと『資本論』第1巻」について書いたのである。しかも締め切り前に書き終わった。そんなことはあるはずがない。あとで読み返せば読み返すほど後悔が沸き起こる。

誰も書かないことを書くというモットーには沿っている。しかし、今進めるべきテーマは「山川菊栄」であるから、邪道といえば邪道なのだ。それなのに、「おわりに」で結びつけてしまった。結びつけないでは終わることができなかった。

 

それに、この6月、講演を二つ引き受けた。これもモットーに反している。どんなに小さな講演でも準備に一定の時間がとられ、当日を含めて、目的にすすむはずの時間が奪われることはこれまでの経験から百も承知だからー。それなのに引き受けてしまった。

依頼原稿や講演をそんなに深く考えてあれこれいうものでもないことも知っているといえば知っている。

いいじゃないか、たまには自分で敷いた軌道からはずれたって―。それも面白いではないか。

でも講演の一つは、私でなくたって、いや私でない方がよほどうまくやれるようなテーマである。これは、たぶん、この際、自分が勉強するに値すると思ってお誘いにあえて乗ったのだ。

 

そして、本業は?やっていますよ。難所をあえぎあえぎ進んでいる。戦後に入ってまだGHQと菊栄のところを進んでいる。まだ?そう!

この個所、先行研究がないとはいわないが、私が考えているようなことを包括的にズバリ書いている研究はやはりない。なんでだろう? 

ないからこそ、私の問題意識に沿って苦労しているんでしょう!やる意味があるんでしょう!!

しかしあるのに私が知らないだけではないかという思いが常に付きまとう。もしあったら、私があっさり引き下がらなくてはならない。

あれこれ考えているうちに、時間は容赦なく過ぎる。

日本の政治情勢が、60年安保の時以上の山場だ。あのときは札幌にいた。今は首都東京にいる。この時を私はどう配分して生きるかが重大問題なのである。

 

 

 

 

| 近況 | 22:26 | - | - |
忙中閑あり

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ここは、山野学苑の愛治庵(八王子)、ご縁があって、この裏千家の茶室で御薄をいただいた。

 

先週1週間から今週にかけて、連日出歩き(12日は恒例の「金八デモ」、13日は「八王子市歌を考える会」学習会、14日は第22回 No War 八王子アクション、15日は太極拳で一息ついたが、16日は日比谷野外音楽堂の集会から夜の銀座を「共謀罪阻止」のパレード、という調子)、第9章が進まないのである。一つは、私が戦後のGHQの占領政策の本質にせまれないでいることと、一つは当時の政党の動きをいまいち飲み込めないでいることが原因である。そのほか、断らないでしまった小論の構成がなかなかうまくいかず、何度も書きなおしているということもある。

 

そんななか、17日、緑に囲まれた茶室で、こともあろうに「宮澤・レーン事件の真相を広める会」の仲間たちと、すてきな数時間を過ごしたのである。夢のように素敵な時間だった。家に帰って来て、がさごそと探し物をした。いつもは必ず見つからないはずのものがすぐ見つかった。不思議なことなので、その一部を写真に撮った。

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こんなものが出て来たのである。1959年3月10日という日付、松原セツという私の名前。大学1年生の時のもの。

茶道をやっていたという証拠である。札幌で友人と習いに行っていたことは確かだ。クラブ活動ではない。

クラブはフォークダンスクラブに入っていたが、女子学生は近くの藤女子大の学生に人気が集まることと、5%しかいなかった自分の大学の「女子学生の会」の活動にのめり込んで行って、やめてしまった。それに1959年は、60年安保の前夜だった。

 

「北海道平和婦人会」のボランティアをしたり、第5回日本母親大会の「女子学生の会」代表で上京したりしているうちに、この茶道も、時間不足で、月謝捻出の家庭教師その他のアルバイトとのバランスもとれず、やめてしまった。でも確かに短い期間でもやっていたことは確かなのだ。これまでも、家で時々、お茶をたしなんでいたことがなくなはい。しかし、この本格的な愛治庵で、この時のことを、しみじみ思い出したのである。それは、60年安保の情勢と重なる思い出である。

 

家に帰って夕刊を広げると、高浜4号機午後再稼働、「共謀罪」法案巡り云々。嫌でも、つかのまの「忙中閑あり」から覚めなくてはならない。やれる時間に少しでも前に進めないとせっかく第9章まで来た原稿が空中分解するような情勢だ。

 

それにしても、戦前・戦中はもちろん、戦後少しの暇もなく始まった「逆コース」からずっと、戦いはひと時も止んだ時期はない。

また「マイ年表」を上下、左右にスクロールして、考え、発見し、書き込み、疑問があふれ、机の周りや足元が、混乱をきわめ、ため息が出る。「マイ年表」は8ポイントで40ページを超えてしまっている。もちろん、最後には、これを整理し削除するところも多い。

 

本当に少しずつしか進まない。調子が悪いPCのダウンロードをまって、いつまでもかかって、途中で待てなくなる思いにも似ている。しかし1行でも前に進めなくてはならないし、前よりはたしかに進んでいるのだ。

 

私が、これまで手掛けた、もう忘れかけた多くの物事のなかで、まちがいなく残っているのは、二つ。「研究」と「不条理なものへの抵抗」。

まあ、その二つは、御師新川士郎先生の言葉を借りれば、「心中に値する」。

 

 

 

| 近況 | 02:05 | - | - |
JAICOWS研究会

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毎年、5月の連休中に撒いているアサガオの種。遼寧省撫順の「戦犯管理所」の中庭に咲いていたアサガオの種。捕虜だった日本兵が管理所の職員から持たされて帰国したという「赦しの花」であるアサガオの種の末裔を宮崎礼子先生からいただいて、3年目。

さてと思ったら、何と昨年採りそこなった種がこのようにちゃっかり芽を出してもう伸びているではないか。

昨年、千粒以上と思われるほどの種を付けて自然と落ちて、自分で芽をだしていたのだ。

 

昨年、実を殆どつけなかった柿のきも青々と葉を伸ばし、葉の根元に、もうこんな小さな実をたくさんつけている。

すごい生命力!

 

それにくらべて、私のしていることといったら、ゆきつ、もどりつ、また、年表の上へ下へ、左右へ、カーソルを何百回もスクロールして諸関連を確認し、頭に入れ、考え、調べー。進まない。毎日たくさんの書籍が刊行されて、毎週の新聞の書評欄をにぎわし、興味深い本が次々と出されるのをみて、感心する。

 

そんなところへ、「JAICOWS会員の皆様」というメールが飛びこんできた。JAICOWS(女性科学研究者の環境改善に関する懇談会)ネ。なつかしい。『女性研究者のエンパワーメント』(ドメス出版 2008)の第8章に、この会について書いたものだった。

メールは、5月9日に、今年度最初の研究会を青山学院大学でやる。講師は大沢真理氏。テーマは、「格差・貧困をどうとらえるかージェンダーの視点から」。むやみに行ってみたくなってでかけた。予定外の行動。JAICOWSへ行くなんて10年ぶりですよ。

 

かってこの会の事務局をやったことのあるものとしては、何人かのなつかしい顔ぶれに出会った。私は、自分で、その時々一生懸命やった「事」に関しては、振り返りたくない人間である。でも久しぶりの原ひろ子先生にお会いして、この方に鍛えられたことに感謝し、大沢真理さんの報告は歯切れよく、最高の研究者の報告とはなんと刺激されるものかと嬉しく、初対面だった今を時めく羽場久美子日本学術会議会員との喫茶店での会話から最近の日本学術会議の情報も得て、八王子に戻った。

 

そしてその翌日5月10日は、「八王子市歌を考える会」の会合。私が八王子の市民運動で知り合った新しい友人たち。

2時間ほど5月13日の「ますらおって何? 八王子市歌と男女平等を考える」学習会の資料作りをやった。作業が終わって1時間ほどいろいろな話をした。

新しい友人たちも素晴らしい。新鮮だ!これは、私のfacebookの領域なのでここでは書かない。

 

5月14日の、第22回 No War 八王子集会 では、共謀罪の寸劇の代役をたのまれた。

ああ、いろんなことをしなくてはならない。

 

こうして新たな道が切り開かれていく。もうJAICOWSにいくことはないだろう。2017年5月9日の思い出を胸にー。

なにしろ、こんななかで、自分の本の原稿を書き進めなくてはならないのだから・・・・・。それが本命だから。

 

| 近況 | 00:26 | - | - |
敗戦までたどりつき、占領下に入る

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こんなに大きなフー吉の顔をのせてしまっていいのかためらうがー。

このところ22歳直前のフー吉が、とても若返って、よく食べ、階段を下りたり上ったり、ベランダをうろうろ、庭を行ったり来たり、外の階段から2階へ上がって、猫専用入り口から家に入ったり、風呂場を覗いたり、元気である。その上、私が仕事をしているところへ来て、邪魔をする。要求は、「だっこしてほしい」ということなのだから驚く。この写真は、私の膝の上にいるところ。

一日に何回も、ちょっと遠慮がちに「ニヤオン」と呼びかけて近づいてくる。

 

そのせいとは言わないが、第8章を何とか終えてやっと、戦後の 第9章 占領下の日本 に入ろうとしたところ、約1週間、どうしても手が付かなかった。一行でも、一語でもという方針をずっと貫いてきたのに、それなのになぜか、空白が生じたのである。

 

理由はいろいろあったが、やはり戦前と戦後は、対象に向かう構えを変えなくてはならなかったのだ。決して連続しない。その構えができていなかった。

やむを得ず、一年以上前に終えていた、マイ年表の戦後を見直し、確認することから初めて(助走)、数日間かかって、年表から今日かろうじて離陸した。

そして思う。世界も日本も、いや歴史は、どの瞬間だって複雑に絡み合って動いていない時なんてなかったのだと。

今の情勢に、あきれているなどということではダメなのだと。

それにつけても、計画より、時間をかけて、じっくり取り組まなければならないということが自ずと明らかになる。

 

クラーラ・ツェトキーンを50年かけてやった。山川菊栄をまだ3年少ししかやっていない。それを思えば、私の生命と競争になることはやむをえなかろう。時間がたてばたつほど主体的肉体的条件は悪くなるはずだが、研究にはじっくり時間をかけたいという思いは募る。困った。担当の編集者さん。待ってください!待っていただけるだろうか。

 

フー吉は22歳、人間の寿命に換算すれば100歳を超えているという。年に2回ほどホテルを利用させていただいているM動物クリニックの先生は、「うちのにきている猫の中で一番高齢です」とおっしゃった。年に一度ワクチンを接種するだけで、病気にかかったことはない。クラーラ・ツェトキーンをやっていた時は、パソコンの上を歩いたりしていたが、今は私の膝の上で私の顔をこうしてジッと見ているだけで手を出さない。この目は「がんばってね」と応援してくれているのかな。とってもかわいい!

 

 

 

| 近況 | 02:03 | - | - |
定年退職後9年目の4月に

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津久井湖の満開の桜。退職後は毎年4月どこかで花見をしている。この写真は、私のiPhone7で宮澤賢治の一人語りクラムボンの会の林洋子さんがシャッターを切ってくれた。昨年1月の、八王子市長選挙で、五十嵐仁氏の応援を記念に立ち上げた「平和・くらし・環境 八王子学術文化の会」の第3回日帰りバスツァー「リニア実験線見学と春の忍野八海、道志みちを巡る」(4月8日)のコースの最後に立ち寄った場所です。

 

今、私は、山川菊栄研究を正中線に置きながら、何をしているかというと、市民運動をしているということになる。

活動頻度の高いものから書くと、毎週金曜日夜の反原発「八王子金八デモ」一常連、毎月の「No War 八王子アクション」、毎週一度の散歩を兼ねた地域ボランティア(富士山を見ながら)、月2回の特養老人ホームの「傾聴ボランティア」(大学セミナーハウス前を通る)、 「平和・くらし・環境 八王子学術文化の会」の運営委員、「八王子手をつなぐ女性の会」の中にできた「八王子市歌を考える会」の諸活動その他、数種類あるが書くのが面倒だ。そうだ。新しく「日本科学者会議八王子科学フォーラム」の運営にかかわることになった。

 

大学教員の定年後一般的な活動と思しき、講演や依頼原稿書きは、最初の数年はやったが、今は、原則としてお断りで、断るほどでもない報告とか、私が書いた方が他の人に頼むよりはいいかと判断するもの以外はひきうけない。もう飽き飽きしているからだ。今年に入ってからは、原稿は3本断り(国際女性デー関係まで断った!)、3本引き受けた(クラーラ・ツェトキーン、アウグスト・ベーベル関係のごく短いもの。少し長いものでも資本論第1巻とクラーラ・ツェトキーンとか)。

 

定年退職後も、学会活動、研究会活動を続けている方には一目置く。

しかし、私はメインの社会政策学会は名誉会員になって、とても思い入れのある会だが私はもうどうでもいい存在、日本家政学会は功労賞をいただいたら会費無料で会報が毎号届くが行く気はしない。生活経営学部会も名誉会員でここ数年ご無沙汰。ARAHEはいつか永年会員の会費を払ったから、機関誌は届くが、日本で開催しても行く気はしない。現役時代全力を挙げたものはもう十分との感じで、発展を祈るのみ。経済統計学会は今も平の一員で入会したまま。なぜだろう。教え子たちが専門でないのにとてもお世話になったという感があるからだ。でも近い将来退会するだろう。

 

研究会は、女性労働問題研究会だが、やむをえずまだ関わっている。閉会にするとか言っているから見捨て置けないからだ。

この会は、多分私はずっとやめないだろう。

 

正中線に研究を据えるということは、私の場合とてもよかった。ただし、加齢に伴う各種障がいにたいする構えが必要である。

これは、市民運動に就いても同じことが言える。要するに、心身の健康管理である。趣味でも、余暇でも、自由時間でもない。これは、自分に課す義務的時間である。

 

私の場合、月、水曜の午後、Kスポーツクラブへ行く。火、金曜は、ボランティアと「金八」デモで歩く。コールや歌はなるべく大きな声で。月曜の太極拳は大好きだが、それ以外、義務としてやっている。しかし、上記を含めて退職後の24時間は自由意志で自分が決めたことである。

不思議だ。どれを「やめた」といっても、今のところ「年金を払ってやらない」とは言われない。

 

すでに、給料をもらう労働から解放されて久しい身だが、自分の自由意志からも解放される日は来るのか。

なんとなく2度目の解放を憧れなくもないが、多分それは私が人間をやめざるを得ない最後の時なのだろう。

 

まあ、余計なことは考えないで、第8章まですすんだ今の研究をとりあえず完成させるよう、定年退職後の9年目をまじめに生きよう。

 

 

| 近況 | 22:01 | - | - |
2度目の福島、壊れたPCと、iPhone7と ― 定年後8年が過ぎて―

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iPhone7から 福島県富岡町富岡第二中前の無人の家と放置されたフレコンバッグ

 

3月20-21日、福島現地調査実行委員会主催の第6回目に参加した。福島は、2013年に、日本野鳥の会のツァーで行って以来のこと。

あまりに多くの事を見聞し学んだ二日間で消化しきれていない。

まず、最初に立ち寄った楢葉町宝鏡寺の早川住職の講話の「ふるさとはもうない」の一言はとても重かった。

政府が保障打ち切りのために進めている、帰還解除地域の杜撰な除染の状況をこの目で見て、「原発と人間の共存はありえない」との思いを強くした。道路を挟んで別れる帰還困難地域への立ち入り禁止の柵に、国と東電の無責任・非情さを見た。

バス内での現地の講師のお話から、築きあげて来た歴史と文化そして自然の破壊、「補償金」の名による人の複雑な分断の「闇」、それにめげずに100年先、200年先をを見据えて立ち上がる人々の勇気と智恵、連帯と希望の「光」が、私の中で錯綜した。放射線が人体に及ぼす影響についての科学者たちの論争の一端にもふれたが、人間はこの問題を何としても乗り越えていかなければならない。

「生業返せ、地域を返せ!福島原発訴訟」の結審の日の3月21日、福島地裁を囲む人間の輪の中の一員として加えていただいた。

参加者の交流会やバスの中での発言や討論、周りの方と交わす会話もこの調査団ならではのものであった。

冒頭の「ふるさと」論議から、WHOを含む国際的科学論議まで、帰りのバスなど4時間も少しの居眠りも許さぬ充実ぶり。

私は、毎週の「原発反対八王子金八デモ」常連者として参加したのだが、そういう活動も評価していただき、嬉しかった。

 

今週月曜に、夜中に、難航している進行中の原稿の第8章を途中まで書いて、ある程度の見通しが立ちやれやれと思って保存して寝て数時間後、立ち上がらない!!修理店にかけ込み、部品交換、修理、データ移行の時間を、お金で買って、一昼夜後には元に戻った。ああホッとした。クラーラ・ツェトキーンを書いていた時は、前のPCだったが一度もこのようなことは起きなかった。いろいろな危機管理ができていないことを思って、活断層の上に素手で寝ているような気がしていたのだった。何事も起こらないことの方が偶然という気がしていたらやっぱりこういうことが起きた。勿論データの保存はその都度やっているとはいえ、大きな仕事をしている時はいつもハラハラしている。

 

スマホの方はどうだ。「習うより慣れろ」といじくりまわしている。すこしづつ何やら要領が解ってきてはいるが、何度も失敗をしている。

失敗を恐れず、どういじっても壊れないだろうと勝手に思ってやっている。しかし、何という利口な機械だろう。

こんなものをいじっているうちに、定年後8年が過ぎた。信じられない速さである。この時間経過の速さと競争しながら、今の研究を完成させるのはかなり恐ろしいことである。1927年から1933年という今対象としている時期も時期である。しかし、目をそらしてはならない。しっかりとみすえて、これまでの私のもてるすべてを動員し、対象化して、この時期を書ききらなくてはならない。

こうして、定年退職後9年目に入ろうとしている。

| 近況 | 14:39 | - | - |
ついに<本物スマホ>いじくりまわし中

 

最初に、携帯電話を使い出したのは、前世紀1998年のこと。そしてそれに最初の電話を受けたのは、なぜか中央大学の図書館の書庫で、調べ物をしている時。長女の夫からの「産まれました。@@@@gの男の子。元気です」だった。

あれから18年以上が経って、その間、携帯電話が3代目を経て次を買い換える時、「らくらくスマホ」なるものにした。定年後の事である。男の子は、選挙権を行使できる年齢となり、今春高校を卒業した。彼は言った。「スマホは年寄りのためにあるようなものだ」と。「そうか。今のうちに彼に操作を教えてもらおう」と、「らくらく」でない方の「本物スマホ」に手を出した。18年間に5代目である。彼の予備講習は、いままでの誰よりも親切でやさしい。数日後の本格講習が楽しみだ。今は、やみくもにいじくりまわしている。

 

PCの方は、タイプライターからワープロ専用機の経験なしに、1985年から立川短大の研究室で導入し、たしか「ユーカラ」というソフトからはじまった(メールは90年代に入ってからと思う)。それが「一太郎」となり、1990年代、昭和女子大に異動した初期に、留学生からの要望で「Word」に変えた。フロッピーの大きさも変わり、PC自体は何度買い換えたか覚えていない。大学がPCの新しい機種にするごとに、個人でもそれに合わせてノート型を購入した。ノート型パソコンはどこに行くにもついて回り軽量になった。

 

時々大学コンピュータ室の講習会もあったが、とにかく、何が何でも必要に迫られて自己流に覚えていくしかなかった。

仕事の連絡は、皆メールとなり、学生の卒論、修論、博論指導も全部添付ファイルでやりとりするようになってから、それこそ、大げさに言えば、夜も昼もなく、盆も正月もなかった。1冊の本をフロッピーに入れて渡して作成するようになったのは、私の場合1990年直前だったように思う。原稿をデータで送信するようになったのはそのかなり後のことだ。

社会政策学会がホームページを持ち、学会の運営がメール中心になっていったのは、私が代表幹事になる前後だから、前世紀も終わりに近づいたころだったろう。

ホームページは、大学の教員紹介に接続するもので、独自のものをもったことがなかったが、それをブログ形式で残している最初は2004年で、今書いている「研究ブログ」である。これは、遅い方である。「なるべく早く閲覧者がアクセスできるように」と注意されてからのように思う。

 

フェイスブックは、まったくやる必要も感じなかったし、やりたくなかった。その考えを打ち破ったのは、退職後の市民運動である。

野党・市民運動統一八王子市長候補を応援する必要からであった。手探りで短期間にマスターしなければならなかった。

思いもしなかった2016年の1月のことだった。2016年を通じて、FBにはかなりの時間を費やしたと思う。試行錯誤しながら自己流におそるおそるだったから余計そうだったー。今執筆中の本の2章分に相当する時間を当ててしまったという思いがある。

どういうことだ!今やっている研究を遅らせてしまってますます残余時間は少なくなったが、生活時間研究にも新たな課題が生じているなと思う。

 

そして今、本物のスマホを手にして・・・・・・。これに時間をかけたくない。

でも操作をすいすいやるまでに期間がかかりそう。でもみなさん、すいすいやっている。

18歳の彼ばかりでない。その後この世にあらわれて4月から高校生になる10代1人と、今年10代になるまだ本物スマホを持っていない2人の孫まで、私の手元をのぞきこんで、ああだ、こうだと教えてくれる!

「何で、あんたたちわかるの?」「すぐわかるよー」

電車のなかを見回すとみんなやっている。みんなできるものなんだ。車の運転を覚えた時と同じ思いだ。すごいなあ。

いまのところ、みなさんがえらくみえる。

 

写真の梅は、新しいスマホで写して、はじめて送信したもの(我が家がここに引っ越してきた前からあった樹齢不詳)。

昨年、砂漠化させた庭に残した、2本のうちの1本です(もう一本は引っ越してきたときに植えた柿)

私の「本物スマホ」時代がはじまります。

 

 

 

| 近況 | 13:22 | - | - |
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