伊藤セツ研究BLOG

このブログは、当初は、勤め先の教員紹介に付属して作成されていたホームページ。定年退職後は、主に、教え子たちに、私の研究の継続状況を報告するブログに変えて月2-3回の更新。
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昭和女子大学「近代文庫」と雑誌『番紅花』(1914)―光葉同窓会に招かれて

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私が昭和女子大学に勤めはじめた28年前この右側の古い建物の3階には、昭和女子大が誇る特殊コレクション「近代文庫」があった。

大正デモクラシーの精神を受け継いだ、詩人・文化人創設者人見円吉が集めたこの「近代文庫」のある大学に職を得たことは嬉しいことであった。さっそく閲覧させていただき、アカデミズムの香りに触れて、なぜか「もし嫌なことがあったらここに来て泣こう」とまで思ったものだった。それからしばらくして、「近代文庫」の蔵書は図書館に統合され、この建物には、教員の研究室が沢山作られた。

 

そしてこの大学での私の3度目の研究室が、「近代文庫」の受付があったその場所になったのである。その研究室で私は日夜働いた。

泣くどころではない。正面からも、振り返っても、写真など写す余裕などなかった。

定年後8年目にはいって、昭和女子大に行く機会があり、はじめてカメラを向けたのである。ああ、あの3階の真ん中。

 

6月17日、光葉同窓会からお声がかかってちょっとした講演をすることになったのだ。

講演の後、山川菊栄の最初の翻訳数編を掲載した『番紅花』(サフラン)という雑誌を見せていただくお願いをした。

「近代文庫」にこの雑誌が入っていることを数年前からつきとめていたのに、そのままにしてあったのだ。

とうとう対面する機会が来た。嬉しかった。何しろ定年後8年間で、この職場に来たのはこれが3度目だったのだ。

 

講演の題は、同窓会側の要望とかみあわせて<「今をこれからを」悔いなく生きたいー定年後も研究者として、市民として>というようなものであり、第一に、現職にあるとはどういうことか、第二に、定年後10年の設計をどうしたか、第三に、Post Truth といわれる今をどう考え、研究と市民運動をどう統一して生きていこうとしているか、についてお話しした。

 

3度目ここにきて、はじめて私はここが懐かしいと思えた。数え切れないほどの会議をやった「本部館3階大会議室」!

この職場で私は鍛えられた。3つ目の職場として、私を20年も雇って給料を払ってくれたくれたこの職場での日々の苦楽には感謝してもしきれないものがある。 ここでの20年があったから今があると思える。

 

光葉同窓会の役員のみなさんの、この大学の建学の精神が身についたホスピタリティにも敬意を表する。

お願いしておいた「近代文庫」所収の雑誌と、コピーをとっておいてくださったのだ。

そこには、今私がテーマとしている山川菊栄の最初(23歳)の翻訳(コロレンコ、カーペンター)が、待っていた。

確認できてよかった。とても有難かった。

 

終ってから、教え子で研究者になった2人と久しぶりにずっとお話しして帰ってきた。まさに「現職にある」バリバリの2人と―。

 

 

 

 

 

 

 

 

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