伊藤セツ研究BLOG

このブログは、当初は、勤め先の教員紹介に付属して作成されていたホームページ。定年退職後は、主に、教え子たちに、私の研究の継続状況を報告するブログに変えて月2-3回の更新。
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社会政策学会の16年の責任を果たして(平成18年6月10日)
社会政策学会第112回大会が2006年6月4日に立教大学池袋キャンパスで終わった。

 前日、6月3日昼は総会であった。2001年、二村一夫会計監査の次点として、氏の滞米の不在に代わって以来、3期6度目の会計監査を務め、任期を満了した。私が始めて推薦監事になった石畑良太郎代表幹事の1990年、会計監査は社会政策学会の重鎮佐口卓氏であり、1998年-2000年の私の代表幹事時代の会計監査は尊敬する島崎晴哉氏であった。そうした何か一段と上の存在に思われた会計監査をこの私がもう6年もやってしまったとは、自分でも信じられない!

武川新代表幹事は、就任の挨拶で、「伊藤セツ氏以来の学会の変革路線を受け継いでいくつもりだ」という意味のことを言われた。私はすぐ武川氏のところへ行って「私からではない。二村一夫氏の時代からだと言うべきでした」と言った。二村氏にそのことを告げると「伊藤さん。これからはね。われわれは、忘れられるものなんですよ」といわれた。今、会員があたりまえと思っていることが、この学会の長い議論と創意で作り上げられてきたものであり、ついこのあいだまで論争していたことなのに、新しい会員はもちろん、古い会員でも「へえ。そうだったの?」と平気でいう。思えば私はこの学会の改革に、下積みから始めて1990年代のすべてを費やし、論争と実行の10年を送った。今世紀に入って会計監査になってからも会の改革が着実に進むさまをみて本当によかったと思った。



                       2.

 私は、大学院の修士課程のころから、ほとんど毎年社会政策学会の「列席者」席に座っていた。やっと会員になれたのが就職して2年目、30歳のときである。その数年後仕事の必要から別の学会に入会したが、まるで学問的母語が通じないという違和感を味わった。私は社会政策学会を学問的母国として20年も誇りに思っていた。

 しかしである。両学会の理事やら幹事やらになり、社会政策学会の大会会場校の責任者となった1992年、もう一方の学会をも社会政策学会をも完全に相対化して見ることができるようになった。よい面があれば、悪い面がある。いかなる組織も改革のないところに発展はないということを深く感じるようになった。

たとえば、第一に、社会政策学会には学会賞・奨励賞もなく、そもそも社会政策学会に

学会賞はなじまないという議論をしていた。大論争をしたが、栗田健幹事が、学会賞の創立を強く主張され、私は大賛成して規定ができて今日に至った。今社会政策学会に賞はなじまないという人はいないであろう。

第二に、役員選挙は大会時の総会で参加者だけで行い、任期制は導入されていなかった。30年以上も幹事であり続けることが誇りであるらしいと知ったときの驚きは隠しようもなかった。だから同じ顔がいつまでも改革もせずのんびりしているのだと思うと耐えられなかった。何期にもわたる論争を経て、連続三期を限度とすること、65歳以上の幹事の人数を全会員の65歳以上会員の構成比以下にすること、などの改革が進んだ。こうして1999年、はじめて郵送選挙が実施されたときのことは忘れられない。

第三に、学会事務は、すべて本部校でやっていた。このことは、本部校を疲弊させ本部をひきうける大学がなくなった。経済学部もない昭和女子大学の、専任もいない女性文化研究所に本部が移るはめに陥ったとき、誇り高い会員の中には世も終わりと思った方もいただろう。解決方法は反対を押し切って、一部事務を強引に事務センターに委嘱を断行すことしかなかったのだ。今となってはこのことが感謝されているのがおかしい。

第四に、学会の春秋の大会と機関紙の発行が二元的に組織されていたことである。その理由は、北海道出身で、学閥的中枢大学出ではない私にはよく理解できた。しかしである。このことは、ひとつの学会としてのいっそうの発展の阻害にしかならないのだ。この統一への改革のための幾世代にもわたる苦労は大変なものであり、多くの役員の時間とエネルギーが支出された。

第五に、学会誌が近代的学会の学術雑誌の形式から立ち遅れていた。英文要旨をつけたり、審査論文を掲載したり、科学研究費補助金を申請するという体制からは程遠いところにいた。若い会員を増やすためにはここにメスを入れなければならなかった。

第六に、院生の学会入会はこれも論争の末やっと博士課程の院生からであった。理由は、修士は本当に研究者になるかわからないし、学会のレベルが下がるというのである。ところが、昭和女子大に本部を置いたとき、私のところの博士課程の院生が就職した後であり、修士の院生しかいなかった。この院生を入会させなければ運営に支障をきたすことは明らかであり、修士からの入会を認める規定を認めさせた。私の院生が修士入会者の1号であった。この院生を私はひとしお大切に指導した。この第1号は、Dに進み、学位を取得し、学振の特別研究員となり、就職し、学会保育所利用者の親となった。

第七に、学会参加費はずっと無料であった。そのうえ、会費を大会参加時に支払い、会場で学会誌と交換していた。このことは、財政的にも、大会開催校の負担にとってもマイナスであることは明白であった。このあたりの改革は、学会の組織文化とぶつかり合うことで、今となっては信じられないほどのエネルギーを必要とした。

第八に、幹事会が夕食時にかかるとき、本部校が幹事の弁当を用意し、大会の時は、開催校が幹事の弁当を特別枠で用意していた。開催校は、「弁当の数」数えに気を使い、予算上も負担がかかっていた。この慣習もやめるときがきた。つまらぬことを書くと思われるかもしれないが、こうしたきめ細かな配慮というものがこの学会には驚くほど欠けていたのだ。

第九に、幹事会は常に東京で行われ、地方幹事が参加する予算措置はなかった。したがって地方幹事が出席をしないことを前提とした会の運営だったのである。学会運営はボランティアだという考えが強かった。私はこの考えにずっと反対していた。

まだまだあるが、最後に、日本学術会議に対する硬直した態度も私には腑に落ちないことであった。日本学術会議の改組後の今ではもう語り草になるが、若手幹事と冒険的策略も試み、何度も失敗した。社会政策学会は、組織的にも激論を戦わせた歴史の上に立っている。



                    3.

私は任期制のない1990年から推薦幹事1期、選挙幹事4期(うち1期は代表幹事)、会計監査を3期、合計16年、毎年春秋の大会時は幹事会室で昼食をとる身であった。

この間、いうべきことは言ったし、やるべきことはやった。来年から昼休みは誰とでも一緒に食事をとれることを安堵している。

社会政策学会に費やした少なからぬ時間とエネルギーは振り返っても少しも惜しくはなく、無駄になったものはないことがうれしい。



社会政策学会のホームページは
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/sssp/

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