伊藤セツ研究BLOG

このブログは、当初は、勤め先の教員紹介に付属して作成されていたホームページ。定年退職後は、主に、教え子たちに、私の研究の継続状況を報告するブログに変えて月2-3回の更新。
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2006年夏のポーランド・ドイツ(平成18年9月30日)
・ポーランド−ヴロツワフ、クラクフとオシフェンチム

 2006年8月26日〜9月13日、ポーランドとドイツへ行ってきました。ポーランドは、はじめてですが、ずっと手がけている研究(クラーラ・ツェトキーン研究)が、ポーランド生まれでドイツで活躍したローザ・ルクセンブルクとのかかわりを避けて通れないので一度は行きたいと思っていたのです。これまで機会がありませんでしたが、8月30日から9月1日まで国際統計学会の下部機関であるIAOS(私はその会員)のまた下部機関であるSCORUSという地域・都市統計に関する国際会議が、ヴロツワフ経済大学でひらかれたのをきっかけに学会参加がてらでかけました。ヴロツワフとは、ドイツ支配下、ドイツ名ではブレスラウ。ブレスラウといえば、1895年にSPDの大会がここで開かれ、クラーラ・ツェトキーンも参加して農業問題で発言している町、1917年にローザがウロンケ監獄から移送されてブレスラウ監獄に収監されたそのブレスラウです。

 ドイツのベルリンのアルヒーフが主要な目的でしたのでポーランドに長居はできませんでしたが、それでも汽車で4時間半かかってクラクフまで行き、バスでオシフェンチム(ドイツ名アウシュヴィッツ)を往復しました。この人類にとって最悪の場所のひとつに世界中から、老若男女、多くの人が訪れ、黙々とガイドの説明を聞き、人間が作ったこの世の地獄をそれぞれに直視している様子を見ました。第二収容所ブジェジンカ(ビルケナウ)のほうにもバスは回りました。これらの収容所で人々が苦しんで死んでいったとき、ローザはもちろんクラーラもこの世にいませんでしたが、彼女たちと直線で結ばれる歴史の現実を後世の人々は見ているのです。

 ブロツロフもクラクフも美しい都市でしたが今は深入りしません。クラクフの中央市場広場には、ローザが愛したポーランドの国民詩人アダム・ミツキエヴイッチ(1798-1855)の像がひときわ高くたっており広場を訪れる人々をみおろし続けています、クラクフから10時間汽車に乗って目的のベルリン東駅に着いたときはすでに9月4日でした。



・ ベルリンのアルヒーフ、「ザプモ」(SAPMO)

 ベルリンには、クラーラの研究で私は1978年にはじめてやってきました。 クラーラの研究をはじめてからすでに15年が経過した30歳代の終わりのことでした。このときのベルリン訪問は、私にとって研究の決定的エポックとなり、その3年後の1981年に、都費派遣研究出張で出直し、1983年にまた訪れました。目的は、クラーラ・ツェトキーンのナッハラース(遺品)のあるアルヒーフでしたが、1970年代、80年代は、あまり目的を達成できなかったのです。当時はこの国では、情報の提供は限られており、むしろライプツィヒのほうで、研究者との交流から多くを学びました。

 ドイツ統一の後、1992年ハノーファーで開催された別の分野での学会参加のあと、ベルリンの様子を見に立ち寄り、さらに1998年には、ベーベルの研究者、2名の女性(ウルスラ・ヘルマン氏とアンネリーゼ・ベスケ氏)と会うために、ベルリンに行きました。月日は流れ、アルヒーフが改組されて久しいというのに、ついにこの2006年の夏まで、行く機会を得なかったのです。最初にベルリンを訪れてからすでに28年の年月が過ぎ去っていました。

 目的としたベルリンのアルヒーフとは、統一前の東ドイツで「党中央アルヒーフ」(Zentrale Parteiarchiv des Instituts f ü r Marxismus-Leninismus beim ZK der SED)、現在「ザプモ」(SAPM0:Stiftung Archiv der Parteien und Massenorganisationen der DDR im Bundesarchiv, Berlin)と呼ばれている所です。昨年のロシアの「ルガスピ」と、今年のベルリンの「ザプモ」は、クラーラ・ツェトキーンの第一級の未印刷資料・遺品を閲覧できる私の研究にとって欠かすことができないアルヒーフです。

 

・「ザプモ」にあるクラーラ・ツェトキーンのナッハラース

「ザプモ」にあるクラーラ・ツェトキーンのナッハラースの全容は、Bundesarchiv(ドイツ連邦アルヒーフ)のウェブサイト

http://www.bundesarchiv.de/aufgaben_organisation/abteilungen/sapmo/

から入って、ツェトキーン

http://www.bundesarchiv.de/findbuecher/sapmo/ny4005_zetkin/index.htmにたどりつき、まず、ここでの検索から始まります。

Findbuch ”NY4005 Nachlass Clara Zetkin” が私の目指すものであり、次のように、6つの柱からなっています。

I. Biographisches Material
II. Ausarbeitungen von Clara Zetkin
III. Die Korrespondenz von Clara Zetkin
IV. Arbeitsmaterialien aus dem Wirken Clara Zetkins in der deutschen und internationalen Arbeiterbewegung
V. Materialsammlung
VI. Dokumente und Materialien über Familienangehörige

こうした整理は、すでにDDR時代、それも私が、はじめて訪問した頃に行なわれており、公開はドイツ統一後1990年代早い時代から、インターネットにのせられたのは、2003年10月からのようです。
インターネットでその一つ一つを開くと、合計129の請求番号(Bestellsignatur1-129)までの概要がそれぞれ書いてあり、それに基づいて、請求番号を示して実物を出してもらうという仕組みになっています。今回も、東北大学の大村泉教授の紹介で事前にメールで連絡がついていたロルフ・ヘッカー博士を通じて事前に番号を提示して送っておきました。

 実際に「ザプモ」に通ったのは、9月5日から8日まで、「ザプモ」の住所はLichterfelde, Fimckeneteinallee63,12205 Berlin、 インターネットに丁寧にアクセス方法が書いてあります。かっての「党中央アルヒーフ」は、旧東ベルリンの中心部、アレクサンダープラッツから徒歩10分くらいで着いたと記憶していますが、「ザプモ」は、中心部を遠く離れ、南側ポツダム方向にあって、Sバーンで、とにかくリヒターフェルデ-オストまで行き、そこからバスに乗ってブンデスアルヒーフ前で降りるのです。ホテルを旧東ベルリンのドームの近くにとった私は片道1時間近くかけて通うこととなりました。

 そこでの作業はほとんど眩暈の中で行なわれたようなものでした。出てくる資料は胸躍るものばかり、しかし感情は抑えて、とにかく短時間で、必要なところをメモし、コピーを依頼しなくではなりません。昨年のロシア「ルガスピ」の経験があるとはいえ、うず高く詰まれた原資料を、なでるようにすばやく3000枚くらいめくり、やっと550枚くらいコピーを依頼しました。1枚0.45ユーロです。

・クラーラ・ツェトキーンの晩年の家ビルケンヴェーダー

土日は休みなので、金曜日の午後に「ザプモ」の仕事を終え、その足で、ベルリンの北側にあるビルケンヴェーダーにSバーンを乗り継いでクラーラ・ツェトキーンが1929年から32年まで住んだ晩年の家急ぎました。ここは、1978年のときも、1981年にも、クラーラの資料館として豊富な展示があったとき行っているのですが、どのように変わったかを確かめたかったのです。ビルケンヴェーダーで降りたら「クラーラ・ツェトキーン通り」と矢印があり、ついにっこり。その方向に降り、まさにツェトキーン通りに面した駅の売店の男性に、クラーラの家のことを聞いたら、「ああ、図書館ね」といって方向を示しました。思い出しました。線路を陸橋で横切るのでした。25年前そのままの光景が広がってきました。

 確かに1階は子ども図書館になっていました。案内をこうと、司書のレーギナ・オレーゲルさんは、「今は、資料展示は2階2室になってしまったけど」、といって、一冊のパンフレットをくれました。それは、1997年にだされた、ビルケンヴェーダーのKORONA文化協会編の、クラーラに関する46ページのものでした。「年に2−3回、クラーラのことを調べているグループが集まってこの家で討論しています」と教えてくれました。家の庭には、ローザとクラーラの像が立っていました。駅に戻ると、先ほどの男性が「このむこうに、クラーラ・ツェトキーン広場とクラーラ・ツェトキーン公園がある」というのです。夕日がさすビルケンヴェーダーの町をその方向に歩いてみましたが、クラーラ・ツェトキーン広場ではなくなんと古ぼけた木にやっとよみとれる字で「アウグスト・ベーベル広場」と書いてあり、小さな公園にはクラーラ・ツェトキーン公園などと書いてはいませんでした。それでも、ほとんど消えかかった字で「クラーラ・ツェトキーンの記念の地」という矢印がありました。

2007年はクラーラ生誕150年、2008年は没後75年です。たしかにクラーラの名残を感じるこのビルケンヴェーダーの町の人々はそのことを思い出すでしょうか。

土・日は、アイゼナハとワイマールに小旅行しました。このことについては、機会をあらためて書こうと思います。
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