伊藤セツ研究BLOG

このブログは、当初は、勤め先の教員紹介に付属して作成されていたホームページ。定年退職後は、主に、教え子たちに、私の研究の継続状況を報告するブログに変えて月2-3回の更新。
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クラーラ・ツェトキーン生誕150周年によせて
−ベルリンでのコロッキウムとツェトキーン・ハウスの庭と−(平成19年7月30日)
2007年7月5日は,クラーラ・ツェトキーン(1857.7.5-1933.6.20)の生誕150年でした.7月6日,ドイツでは,ローザ・ルクセンブルク財団と、労働運動史研究振興協会との共催で「クラーラ・ツェトキーンとその時代」という共通論題のもとに記念のコロッキウムがベルリンで開催され,私はこの記念コロッキウムに報告をもって参加しました.

クラーラ研究のコロッキウムは,旧東独時代,ライプツィヒの,クラーラ・ツェトキーン教育大学主催で,1968年から1989年まで10回行われており,私も,1985年の第8回と,1987年の第9回に参加した経験があります.今から20年前,すでにソ連・東欧でグラスノスチ,ペレストロイカが進行していた最中,1987年のコロッキウムは「クラーラ・ツェトキーン生誕130年記念:東欧諸国における女性解放の実現の比較考察」と題するものでした.しかし,クラーラ・ツェトキーン教育大学は,東西ドイツ統一後1992年に閉鎖され,その後クラーラ・ツェトキーン・コロッキウムは開催されることはなかったのです.

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今回のクラーラ・ツェトキーンの生誕150年コロッキウムは,招待報告者は12名で,全体で参加者40名の小規模なものでした.

プログラムで,報告者とその題を示すと次の通りです.

午前,司会 Dr. Eva Schäfer(Rosa-Luxemburg-Stiftung)

1.Dr. Gisela Notz, Bonn: Clara Zetkin und die sozialistische Frauenbewegung

2.私Clara Zetkins Beitrag zur Frauenemazipationstheorie

3.Prof. Dr. Christa Uhlig, Berlin/Paderborn: Clara Zetkin als Pädagogin - für eine

demokratische Volksbildung

4.Claudia von Gilieu, Berlin: Die frühe Arbeiterinnenbewegung und Clara Zetkin (1880er/1890er Jahre)

5.Dr. Eckhard Müller, Berlin: Clara Zetkin und die Berner Frauenkonferenz 1915

6.Mirjam Sachse, Kassel: "Ich erkläre mich schuldig." Clara Zetkins Entlassung aus der Redaktion der "Gleichheit" 1917.

7.Ottokar Luban, Berlin: Der Einfluss Clara Zetkins auf die Politik der Spartakusgruppe(1914-1918)

午後 司会 Dr.Ulla Plener(Förderverein für Forschungen zur Geschichte der 

Arbeiterbewegung)

8.Dr. Hartmut Henicke, Berlin: Clara Zetkins "Um Rosa Luxemburgs Stellung zur Russischen Revolution". Theoretisch-methodische Anmerkungen

9.Heinz Sommer, Berlin: Clara Zetkin und die Rote Hilfe (1921-1933)

10.Prof. Dr. Rolf Hecker, Berlin: Clara Zetkin mit David Rjasanow auf den Spuren von Karl Marx

11.Dr. Horst Helas, Berlin: Clara Zetkins "Drecksbrief" von 1927

12.Marcel Bois, Hamburg: Clara Zetkin als Antistalinistin



今回のコロッキウムの要点と私が感じた内容は次のとおりです.

 第1に,第5報告から第12報告までは,時代を追って,順次クラーラの活動を取り上げていく組織された報告という感がしました.第5報告から第8報告までは,第一世界大戦からロシア革命までの短い期間の活動が,各報告で丁寧に繋がれていきました.

クラーラは「ローザに,どちらともつかない態度をとった」というパウル・レヴィの評価が持ち出されていました.

 第2に,全体的に,クラーラの晩年に報告の重点が置かれ,第9報告から,第12報告までは,1921年から,ローテ・ヒルフェでの活動やダーヴィト・リャザーノフと協力するクラーラ,さらに,1927年からの,KPDとスターリンを批判するクラーラの様子が,手紙によって描き出されました.第12報告は,ローザの財団から博士号取得のための奨学金をもらっている若い男性の報告でした.1929年にコミンテルンが社会民主主義を社会ファシズムと呼んだことへのクラーラの批判は,PKDからもコミンテルンからもクラーラの孤立をもたらしたこと.しかし,1929年,トロツキー除名にクラーラは賛成していたこと,それは「トロッキーかソ連か」という選択の結果だったことが強調されていました.

 このように,KPDやコミンテルンと必ずしもしっくりしてはいなかったクラーラの晩年を,主に手紙をデータとしてとりあげて議論するというこれまでにはみられなかった傾向が感じらました.

第3に,12本の報告は,3つに区切られて質疑・応答,討論されましたが,私には第6報告者の若い女性が,「クラーラをフェミニストといわないといったが,私はクラーラの『学生と女性』を読んでフェミニストだと思う.どうしてフェミニストでないといったか」,また,第4報告者の女性史の研究者が,「クラーラと市民的女性運動との関係はどうだったか」と質問してきました.私の答えは次のとおりでした.

「最初の質問は,きっと出る質問と思っていました.まず,フェミニストの定義が問題です.日本と欧米は異なるかもしれませんが,日本では女性の解放の問題は固有な思想というより殆どが欧米から来ました.私は,日本で,女性の問題の解決に,対男性の問題を上位において,階級の問題を下位におくか退ける考えの人々をフェミニストと定義しています.クラーラは決してそうではありませんでしたし,クラーラの時代にはフェミニストという用語はありませんでした.(「いやあった」と第1報告者が言う)いや,むしろ『女権論者』といったでしょう.クラーラは『女権論者』と自分を区別していました.現代の用語を当てはめたほうがわかりやすいというなら,私はフェミニストについての自分の定義を変えて,クラーラをそう呼ぶことがあるかもしれません.歴史的に用語がどう変化するか見極めた上で定義を変えるかもしれませんが,今の私の定義でフェミニストではないと言ったのです」(大方頷く).「第2の質問に対し,私の理解する限りでは,1958年にソ連で出版された『ドイツプロレタリア女性運動の歴史によせて』において,クラーラは,ドイツブルジョワ女性運動についてもきちんと押さえていることがわかります.クラーラ自体,小ブルジョワの出身で,ドイツブルジョワ女性運動の指導者ルィーゼ・オットー・ペータースの影響を受けていますし,当時のドイツのブルジョワ女性の高い知識水準(例えば,マリアンネ・ヴェーバーやへレーネ・シュテッカー)を十分意識していたでしょう.クラーラは,各階級・階層の女性の要求を細かく分析し,相違点と,共通点を理解していました.しかし,アウグスト・ベーベルに比べてクラーラの方が,ブルジョワ女性運動に対し,厳しい立場をとりました(頷く人々いる).リリー・ブラウンにたいしては厳しすぎたと思うほどです」.この答えにもさらにいろいろな意見が出されました.

私の司会を担当したDr. Eva Schäferは,「本当は,東京から来た伊藤さんが,今日のコロッキウムの提唱者なのです.伊藤さんから昨年クラーラの生誕150年に何か催しをしないのかという問い合わせがあって,今日の会議がもたれることになったのです」と紹介しました.また,私の報告を「彼女の時代から」「現在にひきつけた新しい報告だ」という人や,休憩中に,筆者の報告中にでてくるクラーラの「無党派女性会議」の見解の文献出所はどこかと質問に来た人もいました.

 このコロッキウムでは,DDR時代から知り合っていたProf. Dr. Christa Uhlig,昨年SAPMOのアルヒーフ検索でお世話になったProf. Dr. Rolf Hecker, 去る4月日本で開催された「第15回ローザ・ルクセンブルク国際会議」で出会ったDr.Ulla Plener氏たちと再会しました.また討論の部で,私の不十分なドイツ語を補ってくださったベルリン自由大学の福沢啓種臣氏にお礼を申し上げます.

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週末の7月7日,8日に、クラーラが晩年に住んだベルリン郊外のビルケンヴェーダーの家(現:ツェトキーン-ハウス)では,パフォーマンス,音楽とダンスの夕べ,講演の催しがありました.しかし,私はそのことを日本で把握していませんでした.それと知って,7日は,ビルケンヴェーダーに駆けつけましたが,夜遅くまで続く行事に付き合いきれなかったこと,8日は帰国の日で全く行事に参加できなかったのが残念です.

ともかく,7日の夕刻,地元の中高年男女が40名ほど,クラーラとローザの像がたっているツェトキーン-ハウスの庭に集まってきて,木の長椅子に座ってビールやワインを飲んでいました.全くよそ者の私を怪訝な顔で見ている高齢の男性に私の方から声をかけました.彼はまわりの人々に私を紹介してくれました.そして,ドイツ統一後,ビルケンヴェーダー駅前の通りを「クラーラ・ツェトキーン・シュトラーセ」として名前を残し,このツェトキーン-ハウスの一角をツェトキーンの資料室として残すために運動をしたのは自分たちだと説明してくれました.ここに「クラーラ-ツェトキーン-記念の地振興協会」があって,定期的に集まりをもっている在野の研究者がいることは知っていましたので,そのリーダーで歴史研究者の女性の名前をいうとすぐ紹介してくれました.マヌエラ・デルネンブルクさんです.40台の前半とみえるマヌエラさんは,「マヌエラ」「マヌエラ」とみんなにとても親しまれており,この「夕べ」の司会をやったり,高齢者を気遣ったり,かいがいしく働いていました.

しかし,そこで私がみた,グルッペ・ターラー(Gruppe Taller)による「クラーラ・Zの家の洗濯日」(Waschtag bei Clara Z)という無言の「音楽とダンスパフォーマンス」とは,衝撃的な内容のものでした.音楽はバイオリンとギターだけ.言葉はひとこともありません.3曲ほどのポピュラーな音楽の最後が,イタリアパルチザンの歌「さらば恋人よ」だったことしか今は思い出せません.

3人の男性(しかし1人は女性と見受かられる)が現れて,上着を脱いでクラーラとローザに着せ,白いシャツ姿となって,大きな麦藁帽子のようなものを被ります.観客に向ってストレッチ体操のようなものをしぐさでやらせた後,熱帯魚を泳がせるようなガラスばりの大きな水槽を脚の着いた台に載せて運んできます.時代物のバケツを持ってきて,そこからほこりにまみれた大きな長方形の赤い布を3枚取り出し,大げさにほこりをはらって,水槽に入れるのです.水槽の水はたちまち真っ赤になりました.小さな洗濯板を1つ持ってきて洗濯の仕草をします.3人の男性は,3つのフラスコのようなものに,管で赤い水を入れ,客席3箇所にそれぞれ離して置きました.それから,布をしぼってバケツに入れました.そのとき布はまだ赤かった.しかし,水槽の後ろですりかえたであろうバケツから取り出した布は目にしみるくらい真っ白で,その布をあらかじめ張りめぐらしてあったロープにかけて干しました.赤い水槽は運び去られ,クラーラとローザの上着は脱がされて男たちが着てフィナーレです.パルチザンのバイオリンが淋しく終わりを告げます.

いったいなんだ,これは?クラーラの脱色?パロディとも,現状の受容とも皮肉ともつかない,解釈に苦しむ内容.観客は拍手.誰かに話しかけようと思っても,次のプログラム「光と影−生誕150年のクラーラ・ツェトキーン(歌 アンジェリカ・ヴァーニンク,アコーデオン ジルケ・ランゲによるシャンソンとセリフ)」のために屋内に入ってしまいました.すでに夜の8時半.私は翌日の帰国の準備のために,ベルリンに戻らなければなりません.

この夜,プログラムは,夜10時半から,再び庭で映画と,ビルケンヴェーダーのRatskeller(市庁舎地下レストラン)提供の食事が予定されていました.夜中まで宴は続くのでしょう.

もっと余裕をもったベルリン滞在でありたかったと残念ですが,学期の最中の出張では,この程度精一杯であろうと諦めて,ベルリンに向うSバーンに乗りまた.ビルケンヴェーダー4度目の訪問でした.



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