10月後半、遅い退職ご苦労さんスペイン旅行に出かけました。2000年のスペインに立ち寄った時に触発されて入手しながら読み終えていなかったスペインの歴史・文学・美術関係の本をまた手荷物に入れて、観光ツァーに便乗しました。2001-2002年にかけて、観光ツァーに加わってインド旅行をしたことがありますが、あの時は社会政策学会のホームページの「会員交流」の欄にも掲載されている(http://wwwsoc.nii.ac.jp/sssp/itosetsu.html)とおり、さまざまな冒険・危険・事件があってスリル満点でした。
今回の旅は、「安全」と「楽」を買った修学旅行のようで、インパクトはありません。
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しかし、今回は、セルバンテスが腕を振るったドン・キホーテゆかりの地(コンスェグラ)と、ロルカの夏の家(グラナダ)に行くことができました。前者は、長時間通勤に耐えかねて面白いものをと、「おひまな読者よ」というセルバンテスの呼びかけで序文がはじまる牛島信明訳の文庫本で読んで、電車の中で声を出して笑ってしまい、まわりからじろりと見られたこともあり、ミュージカル「ラ・マンチャの男」も観に行っていたので、17世紀初頭のコンスェグラの広野を、槍をもって風車に向って走っているドン・キホーテとあたふた後を追うサンチョ・パンサの姿を想像して楽しみました。
スペイン コンスェグラ(2009.10.15 筆者撮影)
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がらりと変わって、20世紀に引き戻され、1936年、スペイン内戦中にフランコ側によって銃殺された詩人・劇作家ガルーシア・ロルカのグラナダの家に行きました。岩波文庫にある「血の婚礼」「イエルマ」「ベルナルダ・アルバの家」(これも牛島信明訳)という女性をテーマにしたロルカの三大悲劇の背景・風土である、アンダルーシアとは?
1998年9月13日、一泊しかしなかったベルリンで、偶然私は「シュターツオーパ・ウンター・デン・リンデン」(旧東ベルリンのシュターツオーパ)のアポロザールで、「題名のない喜劇」という不思議な演出の舞台を見たのです。解説には「ロルカの遺品のドラマから」とありましたが、ダリの絵を思わせる舞台装置と客席後部上方から聞こえるせまりくるファシズムの足音が非常に印象的でした。またアメリカ映画『ロルカ暗殺の丘』も観て、漠然とした違和感を持っており、ロルカに関心を持っていたのです。
アンダルーシアの風土とジェンダーイッシューの関係は、旅人の私にわかるわけがありませんでしたが、ロルカ公園の中にあるロルカの家(ミュージアム)は興味深いものがありました。公園の中に一軒の家があるだけで何も書いていません。ベンチに1人女性が座っており、あと2-3人組が何組かぶらぶらしていました。ベンチの女性に、「これがロルカの家ですか」ときくと「そう。4時からよ」といいました。午後は1時から4時まで長い昼休み(スペインの午睡時間)。4時15分からツァー。ツァー参加以外の入場はお断り。1回の入場は15名。4時、開場と同時に15枚は売り切れ、残りの人は次回のツァーの切符を買たようです。
15名中、日本人二人、イタリア人二人、フランス人二人、他がスペイン人。イタリア・フランス人はスペイン語で大丈夫とのことで日本人にだけ英語で要約説明がなされました。
ロルカはこの家で晩年(といっても30歳代の後半ですが)の毎夏執筆に没頭したのです。暗殺される3年前の1933年(これはクラーラ・ツェトキーンの没年ですが)、ロルカは、「私はここで、最高に平穏な気持ちで戯曲が書ける」と書いていました。
グラナダのロルカの夏の家(2009.10.18.筆者撮影)
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退職ご苦労さんスペイン旅行の10月は、あっという間に過ぎ去り、11月の自宅研究室は、引き受けてしまった講演や報告の準備でごたごたに散らかり始めました。