伊藤セツ研究BLOG

このブログは、当初は、勤め先の教員紹介に付属して作成されていたホームページ。定年退職後は、主に、教え子たちに、私の研究の継続状況を報告するブログに変えて月2-3回の更新。
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最後の院生の単著完成に乾杯
 

 私の最後の院生として,20093月に学位を取得した吉田仁美さんの単著『高等教育における聴覚障害者の自立支援―ユニバーサル・インクルーシブデザインの可能性―』が,630日付けで,ミネルヴァ書房から刊行された.

高等教育における聴覚障害者の自立支援


もともとの学位論文の題は「高等教育におけるユニバーサル・インクルーシブデザインと
D(ろう)/deaf(難聴) Women(女性)に関する研究」というものであった.

 定年ぎりぎりまでの数年,ハルビンからやってきた修士課程の温海燕さんと,博士課程の吉田仁美さんの存在は,本当に私の大学教員生活の最後を飾ってくれたといっても過言ではない.もちろん,当時はこの二人さえいなかったなら,最後4年間の科学研究費がついている私のクラーラ・ツェトキーン研究を思う存分やって終れるものをと葛藤しながらの日々ではあったが,今となっては,逆にこの二人がいなかったらどんなにつまらないエンディングを迎えることになったかと思えるのである.

 

 その一人吉田さんのテーマは,聴覚障害の問題に私を無理やり向き合わせることとなった.修士課程をふくめて彼女と過ごした5年間は,毎日が新しい発見であり,部分.部分の成果を持ってマレーシアでのARAHEや,創立100年を記念するスイス,ルツェルンでのIFHEに一緒に出かけたことは本当に懐かしい.飛行機の中でも,ホテルでも彼女と議論し,成田からは大学の研究室に直行して,新しく気付かされたことを論文の内容に加筆するのを見届けた.その結果オリジナリティの塊のような論文に仕上がった.

審査委員会の構成は,高等教育政策論及び調査論の矢野眞和教授,社会福祉哲学の秋山智久教授,建築デザインの芦川智教授,外部審査員として放送大学ならびに、総合研究大学院大学のメディア文化専攻で障害者支援を専門とされる広瀬洋子教授という誇るべき陣容であった.クライマックスの公開審査会には,51名という多数の参加者が学内外から集まった.

内容については,ぜひ本書を手にとって判断していただきたい.

本書は,聴覚障害をもちながら高等教育を受けて自立した生活に挑戦する人々への支援の在り方を,先行研究の徹底的な精査の上で,実に具体的に生き生きと描いている.特に女性聴覚障害者への視点は,前例のない広さと深さと,学問的展望に満ちている.またこの研究を可能にしたのは,昭和女子大学がもっていたアカデミズム資源(大学院生活機構研究科,女性文化研究所,図書館)を汲みつくし,関連付ける彼女の能力だったと思う.

本書は吉田さんから直接手渡された.本を前に,乾杯し,久しぶりに彼女と心行くまで話し合った.「おめでとう.よかったね.吉田さん」.院生に掛けた時間は,こうして私を裏切らない.私も負けずにライフワークを続けなければならない. 
| 近況 | 23:07 | - | - |
内海庫一郎先生の17回忌に思う
 

 私の恩師新川士郎先生が亡くなったのは1994522日,それから一月もたたない618日に,北大経済学部で新川先生と並んでたくさんの研究者を養成された経済統計学の内海庫一郎先生が逝かれた.

「君はプレハーノフの『歴史における個人の役割』を読んだか.」今でも,40数年前の先生の言葉が耳元で響く.院生研究室に足繁く来られて,たくさんの議論を吹っ掛けられ,何も答えられずに一方的に聞くばかり.何度も「何もわからんやつだ」とあきれて帰って行かれた先生を思い出す.今にして思えばそれは,高度な,贅沢な院生教育だったのだ.

 私は,今ごろになって,ライフワークの進展の都合上,この数カ月,プレハーノフと同時代人,それを遡るナロードニキたちについて考え,手間取って先に進めないでいる.この間いろいろのものを飛ばし読みしたが,クラーラの最初のパートナー,オシップ・ツェトキーンも読んだに違いないチェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』はじっくり読んだ.もし,今内海先生がそれを知ったら「君,今頃読んでどうする気だ.順序が逆ではないか.」と言われそうである.

 内海先生の弟子たちが,先生から聞き取りした本(『聞き書き 波乱の昭和私史』1991)が手元にあるので,なつかしさにページを繰ったらこんな個所に出くわした.

 

 「『私は君たちに○○さんに話したよりももっとたくさんしゃべった.それなのに君たちは私の話から唯の一つの論文もつくりださず,○○さんはあんな立派な論文を創り出したじゃないか』といって怒ったことを覚えています.つまり,私たちの研究室の人たちは,私の話を受け入れる思想の枠組みが出来ていなかったから,私の話を聞き流して,そんな話は自分の専門と関係がない,と考えていると私はその時思ったのです.今では,私たちの研究室の人々は立派な学者になっているのだから,同じことを聞いてもちゃんと,その重要性がわかると思いますけど.」

 

 苦笑しながら,私の教え子たちのことを思った.私は,相手が必要としていること以外,殆んど言わなかった.それが長い目で見てよかったのかどうかわからない.

 内海先生を偲ぶ会(17回忌)は,今日学士会館で開かれ,30人ほど集まった.新川先生の時と同じように「都ぞ弥生」を歌って終わった.私は年齢を重ねるほどに,師というものの意味を考え,この先生たちに教育されたことに感謝している.

| 近況 | 21:59 | - | - |
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