2010.09.12 Sunday
7月15日、猛暑到来の頃のブログで、「クラーラは,エルツ山地を遠く離れて,今パリに亡命しています.1880年代です.ライプツィヒを行きつ戻りつなかなか進みません」と書いてから、もう2カ月。 とにかく暑い夏でした。その後、クラーラについて無言なので「どこまで行きましたか」などと質問されているありさまです。クラーラは、昨年の9月、書庫や仕事場を整理してとにかく私によって誕生させられました。そして1年たったこの9月現在で28歳になり、時は1885年、場所はパリです。 この2カ月は、クラーラがライプツィヒをでてから、リンツ、チューリヒと経由してパリに行くのですが、パリの前に滞在した最後の地チューリヒとパリを、私が勝手に行きつ戻りつして手間取っていたというのが遅れた理由です。この間、やっとチューリヒに別れを告げる決心を私がして、パリに落ち着いたのですが、今度は1885年のパリで止まっているというわけです。手間取った理由はいくつかあります。 まず、チューリヒのもつ歴史的特徴について考察を加えたこと、クラーラがチューリヒで会った、ロシアからの亡命ナロードニキたちの影響を推測して、関連する文献をさらに漁って読んでいたこと、同じく、チューリヒで『ゾツィアルデモクラート』の編集長だったベルンシュタインについて、これまでのように素通りすべきではないと思い、彼の伝記などを読んでいるうちにあれこれ関心が広がっていろいろなものに手をだしていたこと、クラーラがたどりついたパリの時代的背景を重視して、どのような思想家たちが彼女を待ち受けていたかを調べていたこと、そして、1885年、いよいよクラーラが執筆活動を開始する時期、ドイツ労働者階級の女性労働に対する見方について、どのような論議がなされていたかを遡って調べなおし、年表に整理などしていたのです。この最後のところは、1984年の前著でかなり詳しく調べていたところなのですが、1984年以降の、ドイツジェンダー史研究が新視角から論文をたくさん出しているので、私の方向の仕切り直しの必要性を検討するために多方面から突っ込んでみたということです。 そのような作業ばかりでなく、この9月前半は、引き受けた原稿3本の締め切りが次々と迫って、十分な時間をクラーラに注ぐことができませんでした。9日に1本目、11日にやっと2本目を出し終わり、少しほっとしましたが、月末まであと1本あります。しかし、この1本は、大いにクラーラにも関わるものなので、今日からクラーラ研究に戻れるという感じです。 |
| Clara Zetkin 関係 | 01:06 | - | - |
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