2011.05.16 Monday
地域で、「中山の里山を愛する会」に入って1年。また里山の筍堀の季節がめぐってきている。 でも、どうも昨年のように、筍らしい筍を発見して掘ることができない(上の写真)。 「今年は里山の筍は不作」といわれているが、それでも連休のころから二度、堀りに行って、新鮮な筍を堪能した。故郷北海道には、松前をのぞいて竹林にお目にかかったことがないので、竹は、私にはまだ異文化のうちである。里山の整備のため、竹の伐採のボランティアを1年やり、3月には、その竹を大学セミナーハウスの炭焼き釜に入れて竹炭を作るのをはじめて見学し、分け前もいただいた。 でも私は、このボランティアでは、全然戦力にならず、うろついて邪魔をしているようなものである。 道具、コツ、里山への愛情がものをいう。斜面をふんばっても、腕に力を入れても、日頃スポーツクラブで太極拳をやってバランス感覚を養い、背骨コンデショニングなるもので鍛えているので、この1年作業の翌日に体が痛くなるということはなかったが、うろうろしている方が多いので平気なのかもしれないと反省している。 連休のころから、研究は20世紀を進み、「20世紀とは何だったか」という社会科学共通の課題に、クラーラ・ツェトキーンに拠って取り組んでいる。資料は、まずクラーラが編集した膨大な、Die Gleichheit 。その読みなおしからであるが、あまりの内容の密度の高さに途方に暮れる。 しかしである。ここに、今日につながる、いやまだまだ解決できない、女性労働問題と女性運動の問題点の原型が、殆ど包括的に、見事に姿を現し、議論されているのだ。 あせらずに、一歩一歩進むしかないと心に決めている。 先週、北大イールズ事件、60年安保、70年安保を記録した『蒼空に梢つらねて』の出版祝賀会に出席のため、札幌に行った。 まだ薄緑の梢が、まさに蒼空に連なっているキャンパスの中のレストランが、祝賀会の会場であった。 あの薄緑の梢は、まさに青春時代の私。 集まった人々は、私も含めて夏や秋を経て冬に向かう年齢ではあったが、歴史を記録し、総括し、そこから学びなおし、「20世紀」の反省の上で、「21世紀」に、研究者として、あるいは実践家として責任ある足跡を最後まで踏みしめ残したいという思いは共通だっただろう。 その思いのためにこそ、私はまた机に向かって黙々と Die Gleichheit のひげ文字のページを一枚一枚めくってメモし、オリジナルな年表をつくっている。 新たな発見や着想を落とさずに構想の中に組みこんで前に進もうと思うが、あれもこれもというわけにはいかない。どこを捨て、どこにどう光を当てて配置するかが難しい。 竹の伐採によって、里山に陽がさし、小さな植物や、大事な木々たちがのびのび呼吸できるような調和も、私の研究の計算のうちに入れなくてはならない。 時間は依然として足りない。 |