2011.07.31 Sunday
7月末の信州の白樺林 自宅で仕事をしていると、オンとオフのメリハリをどうつけるかが問題となる。 毎日、気がつけば寝る時間。もう今日が終わった。早い。 毎週、気がつけば一定の曜日にする特定のことがそれぞれめぐってくる。また、何曜日がきた。もう一週間が過ぎた。早い。 毎月、第何・何曜日ときめた何種かの地域ボランティアの日があっというまにやってくる。また来た。早い。 研究は、必ず毎日やる、いや、少なくともやろうとする。それが私のメインの仕事だから。それは、食事や睡眠と同じだから。しかし、同じではないのだ。 いくらやろうとしても、堂々巡りをして進まない時がある。毎日やろうとするからそういうことになる。仕事なら、仕事だからこそ、休暇が必要ということになるだろう。気持ちの切り替えが・・・ 7月末に、短い期間ではあったが信州の貸別荘に行った。しかし、静かな休暇ではなく、幼い命たちのあふれるエネルギーとの付き合いの日々を過ごすこととなった。そういう休暇もありだろう。 そして、少しの静かな時間に、読書したり考えたりした。そして思った。 在職中の研究は、研究以外の他の給料のうちの仕事の合間にやらなければならなかった。締め切りが必ずあり、学会報告や論文や書物で必ず世に問い、業績として「表現」することこそ研究であった。 研究とはそういうもの?研究とは業績? いま私は、研究とはそういうものではないと思える世界を生きていることを感じた。 では、今までやったのは研究ではなかったか? いや、それも研究ではある。 今、思うことは、研究の成果はやはり「表現」への強い欲求を伴うということである。研究とは自己満足のためにするものではないから(大体私はそのようなテーマをわざわざ設定しては来なかったから)、「表現」なしには、何のために時間をかけて研究しているのかわからない。時間はかかるが、研究の「表現」=それは、著書として世に問うこと、の一日も早いことを切望しているのだ。 そのためには、また暑い8月、さまざまな休暇を工夫しながらも、がたがたいわずに机に向かうしかない。 |