伊藤セツ研究BLOG

このブログは、当初は、勤め先の教員紹介に付属して作成されていたホームページ。定年退職後は、主に、教え子たちに、私の研究の継続状況を報告するブログに変えて月2-3回の更新。
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優先順位と継続性も危うくなりそうな2015年4月の末ですが-浜岡原発・「冬の時代」・「北京+20」


4月19日(日)、八王子市議選告示の日、「八王子市民放射能測定室ハカルワカル広場」主催の「浜岡原発見学ツァー」に参加しました。
50名を超える参加者が、大型バスと自家用車で朝8時に八王子駅前を出発し、夕7時過ぎに戻りました。
静岡県御前崎市にある浜岡原発は、八王子、つまり東京都から最も近く、しかも世界で最も危険な場所にある原発なのです。
浜岡原発は、3.11のあと、当時の菅直人首相が、運転中止を中部電力に要請した、あの原発です。
浜岡大砂丘に足を取られながら、1号、2号、3号、4号、5号と並ぶ建屋を近くに観て、浜岡原発PR館ともいうべき「浜岡原子力館」に入り、5グループに分かれて地元の反原発運動の方たちの説明を聴きました。実物大の原子炉模型が展示されていて、臨場感あふれていました。

太平洋に面した静かな渚に、1から5号炉に入れる海水の給水塔が、まるで棘のように水面に並び(2枚目の写真)、右端に見えているところはその排水路の一部とのことです。

参加者の中に、立川短大時代の教え子がいて、30年近くぶりの再会に驚き、話が弾みました。

このツアーの主催者は、上述のように「八王子市民放射能測定室ハカルワカル広場」の皆さんで、参加者は、広場のボランティアをつ続けている方、「金八デモ」の常連も多く、ほとんど、3.11以降、八王子で、反原発の運動を継続している方々でした。

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話は変わって、4月21日、民芸の「冬の時代」(木下順二作、丹野郁弓演出)を観に、新宿の「紀伊国屋サザンシアター」に出かけました。
今の私の研究との関係で、どうしても観ておかなくてはならないと思ったからです。
時代の臨場感というものを求めていたのです。
登場人物は、すべて、あだ名で呼び合っていますが、実在のモデルがいます。その実在の人物すべてに関心がありましたが、私は、解説にも出て来ない、ある人物が出てくるはずだと期待していたのです。その人物は3幕でようやく現れました。脚色がなされているとはいえ直感で分かりますし、かわされる言葉のはしはしで、彼だと確信しました。

右隣に開幕直前駆け込んで座った見知らぬ男性が、何やら熱心に記録しています。相当詳しそうな人だと思い、私は思わず、「あの人、○○○ですよね。」と声をかけたくなりましたが、もちろん黙っていました。左隣は空席でした。
帰りの電車の中で、○○○の評伝の読みかけをむさぼるように読みました。
私は○○○を対象にしているのではありませんが、ある一定の部分、この人物を知らないと書けないテーマととりくんでいるのです。
木下順二はどういうつもりで、この人物をここに置いたか。
あれこれ考え、いつものことながら、また迷路に入り込みそう。
この仕事も、毎日継続して考え、追っていないと、空中分解しかねない。
クラーラ・ツェトキーン研究の時と同じです。
それを、どうしても避けて先に進まないと残された時間はない!

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もう一度話は変わって、4月23日、渋谷で開催されたNPO法人アジア女性資料センター(AJWRC)主催の「第59回女性の地位委員会(CSW)参加報告会」に行きました。
これに関することは、先にブログに書いた「院内集会」であらまし聴いたり断片的報告書は読んだのですが、何分、ニューヨークに行っていないので臨場感がない。
全体像もNGOの行動がなかなか見えない。
20年前の北京女性会議には、嫌というほどの臨場感を浴び、その印象は今も強烈です。
私の「北京+20」を顧み、さらに、日本科学者会議の女性シンポにつなぐために、臨場感を求めずにはいられなかったというわけです。
報告者は3人、カンボジアパンニャストサラ大学教員の中川香須美さん、一橋大学院生の永山聡子さん、AJWRC事務局の濱田すみれさんでした。どれも大変興味深く、集まった方たちも若々しく、未来を感じさせました。
「ジェンダー統計」セッションの話が出て、身を乗り出しました。

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要するに、この、浜岡原発行き、「冬の時代」観劇、NGOの「北京+20」報告会参加は、今の私の優先順位から言えば、甲乙つけがたしです。
優先順位は、単に自分のうちから出てくるものではなく、社会的関係から出てくるものですから・・・・。
優先順位・継続性・臨場感を考えて行動してきた私でしたが、ここにいたって、はたと行き詰まる。
しかし、優先順位は、その時々に一つしかないはず。
でも、その時々というのが曲者なのです。
心して、少ない時間を配分しなくてはー。







 
| 近況 | 01:51 | - | - |
坂西雅子さんとの別れ


4月5日夕刻、私の札幌の親友、坂西雅子さんが、ついに旅発ちました。
入院して1年の闘病生活でした。
 
札幌から戻って、早5日、今、彼女と何度か来た、八ヶ岳山麓、このオブジェ(MEHANADACHI, 1991, MASAYUKI NAGAIKE)がある美術館ホテルに数日滞在しています。
ここも彼女との思い出の場所です。 
 
雅子さんは、札幌で、無宗教、音楽葬ということで、48日の夜は「偲ぶ会」、9日の午前は「お別れ会」で、3人の声楽家の歌で送られました。
雅子さんの夫君、故坂西八郎氏の「野ばら」の研究の後継者として、バリトン歌手の土田悠平氏が、ドイツ語の「野ばら」とともにアルメニア語の「野ばら」を含む数曲を歌い、雅子さんに捧げました。
 
私は、彼女との約束に基づいて「お別れの言葉」を述べました。
下記は、その中の一節です。前略、中略ですが・・・・。
 

 
今年2月2日、雅子さんのお誕生日に、私は、雅子さんが昨年4月に入院してから5回目のお見舞いで、はじめて「緩和ケア病棟」に伺いました。
 
そして、あなたに会ったとき、「今私にしてほしいことは」と聞きました。
すると「弔辞」と言いましたね。
私は一瞬たじろぎましたが、もう仕方がないという気持ちで「わかった」といいました。
 
あなたに初めて会ったのは、今から61年前、1954年、私たちが15の春、函館西高の化学実験室でした
そして、生きているあなたと最後に別れたのは、つい2週間前、3月25日の事です
 
                          中略
 
ところで今日、どうしても言わなくてはならないことがあります。
それは、あなたの歴史学習会の主宰と、千頁を超える拙著の正誤表の作成です。
電話やメールで、あなたは、右傾化する日本を憂えて、市民が歴史を学ぶことの重要性を私に語りました。
そして今、日本は、ご承知の通り危険な岐路に差し掛かっています。
歴史学習会が雅子さんの晩年の仕事だったところに、それと並行して入院前の最後の2か月余りの、拙著の正誤表作りが計画外の仕事として飛び込んだのです。
それはプロにさえできない仕事でした。
著者の私が読み直す気力も尽き果てたものを、並外れた注意力と、根気で、あなたがやって下さったのです。
私が、ひたすら恐縮して、そんなことで、病気の発見が遅れたのではないかと気にすると
「セツさん、それは違うからね。全然関係ない。とっても面白いと思って読んだんだから。自分からやったんだから」と、強く言いました。
こうして、最後に雅子さんは、どんなに感謝しても、し足りない贈り物「正誤表」を私に贈ってくれたのです。
私は、雅子さんと約束しました。
「二刷りがでたら、必ずあなたへの謝辞を入れる。今とりかかっている仕事が世に出るときも、謝辞にあなたの名前を書く」ということを。
雅子さんは「その二刷りっていつでるの?その時、私は生きていないなあ」、私の新しい仕事についても、序文と目次を見て、「面白いね。でもこの仕事も大変な仕事」と言いました。
 そして、雅子さんは、私が病院を辞すとき、「遠いところ来てくれてありがとう。本当にいろんな思い出あるね。いろんなこと話してきたね。そして人生を高めあってきたね。ありがとう」と言うのでした。
 
私は、3月24日、雅子さんの病棟で、自分の仕事をやらせてもらいました。一緒にやったという時間・思い出を作り、そして雅子さんの生と死を私の研究につなぎ、私の研究者としての人生を全うする決意を確実にしたかったのです
 
雅子さん、61年間、ありがとう。
そして、さようなら。                                                   (2015.4.9)
 
 
| 近況 | 11:48 | - | - |
桜の盛りに、JSA第14回全国女性シンポのチラシができました


家の近くの白山神社の桜が満開です。

定年後早7年目の4月です。
「研究と地域」をモットーとして、あがいている私に、紛れ込んできたシンポの「実行委員長」。
そのシンポのチラシができました。
若手のぴちぴちの実行委員さんがが見事に作ってくれました。
日本科学者会議(JSA)の女性委員会HPにもアップされました 
http://www.jsa-tokyo.jp/woman/
が、ほやほやのところを載せます。


  第14回女性研究者・技術者全国シンポジウム」へのお誘い

     テーマ「市民とともに社会を変える女性研究者・技術者」
 
【趣 旨】日本科学者会議が主催する女性研究者・技術者全国シンポジウムは、1975年の国際女性年に第1回が開催され、回を重ねてきました。今年は、戦後70年、日本科学者会議創立50年、女性にひきつけて言えば、女性参政権獲得70年、国際女性年40年、女性差別撤廃条約批准30年、「北京+20」、さらに、第4次男女共同参画基本計画策定の年という、非常に意味ある年です。
その2015年に、第14回目のシンポジウムを東京で開催するはこびとなりました(日時/場所/プログラムはチラシor HP参照)。
 
安倍政権は、経済成長戦略の目玉として「女性の活躍推進」をうたっていますが、長期展望を持たない、文科省の科学技術・大学政策が目まぐるしく変化する中で、かたやスーパーグローバル大学から、かたや非アカデミズム、定員割れ赤字経営、ブラック大学まで、研究・教育条件の格差は拡大するばかりで、女性研究者・技術者が置かれている状況は今までにも増して厳しいものがあります。
 
「任期制」導入は常態化し、劣悪な労働条件の非常勤講師に多くを依存し、外部資金の獲得をあおり、目先の業績づくりを急がせる体制のなかで、女性研究者・技術者の輝く余地は、きわめて困難であるといわざるをえません。私たちは、こうした状況は、ひとり女性研究者の問題であるばかりではなく、女性労働者ひいては、男女を問わず市民全体のおかれている困難の根源と共通している問題であることを認識して、この状況を改善するために、上記テーマのもとに、院生から若手研究者・技術者、シニア研究者までを含む女性研究者のさまざまの課題をテーマとして設定し、エンパワーしようとしています。
岐路に立たされている日本社会を変える力の一端をになう日本科学者会議が果たす役割は重要です。
 
女性研究者・技術者、それを目指している方のみならず、関心ある男女の市民の皆様の、ご支援、ご参加を呼びかけます。






 
| 近況 | 00:27 | - | - |
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