伊藤セツ研究BLOG

このブログは、当初は、勤め先の教員紹介に付属して作成されていたホームページ。定年退職後は、主に、教え子たちに、私の研究の継続状況を報告するブログに変えて月2-3回の更新。
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社会政策学会にそろそろサヨナラしようかーしかし研究の継続は当然

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私の長い間のメイン学会、社会政策学会http://jasps.org/にそろそろサヨナラしようかと思う。

大学院時代から、かかさず「列席」していて、1969年、30歳でやっと入会を許された(当時は敷居が高かった)。

1990年代に、全国幹事8年(1992年に開催校の大会実行委員長)、代表幹事2年(1998-2000)のあと会計監査6年務めた。

2014年に、50年にわたるクラーラ・ツェトキーン研究に第20回学会学術賞を授与され、2015年に名誉会員になり、今年から、会費免除(学会誌購読料は有料)、大会参加費免除、そして学会のすべての義務から免除された。

今年春大会(132回大会)は明治大学駿河台キャンパスで6月25-26日に開催され(上写真)、総会で代表幹事に遠藤公嗣氏が承認された。

懇親会で、なぜか私が乾杯の音頭をとるはめになった。

乾杯の音頭は、もう10年ほど前、札幌での大会懇親会で、先輩2人に逃げられ、一度やった経験がある。

その時、こういう役は一生に一度かと思って、ついに来たと思ったが、2度も当たるとはちょっとー。

3度目が来ないように、もう学会にも出席しないことにしようと決心した。

でも名誉会員という名は生きている限りついて回る。退会ということはない。

でも研究は別だから研究を続けていればよい。誰もやっていない研究だから自分でやる!

 

1972年にあっさりと入会させていただいたサブ・メイン学会、(一社)日本家政学会は、関東支部会役員とか、理事とかを務め、20年にわたる生活時間研究にたいし1994年に日本家政学会賞をいただき、国際交流関係の委員をやって、2010に学会功労賞をいただいた。日本家政学会の部会である生活経営学部会では、何年やったか忘れるくらい幹事とかに選出されて、部会長を2度やり(名称変更とかあってやむを得なかった)、それも2010年に名誉会員となってお役御免となった。こうして、いろいろな義務から解放されて、残るものは研究の継続のみである。

なんという有難い身分だろう。ところで、その研究だが、二つの問題に直面する。

第一は、何のための研究かということで最終的に統一される問題ではあるが、どういう時間配分を選択しているかの信念にかかわる問題。

第二は、加齢に伴う身体の変化に対応する努力、そのために支出する時間を敵視したくなってしまうという問題。まあこれも、何のためにということで最終的に統一される。

研究という仕事は、狂気の部分があって、時間割通りにはいかないことが普通である。

配分の規則性や予定時間の絶対量は常に破られる。それは、人の常識的生活と矛盾し、多くは理解されない。

私は、誰もが普通にやる常識的なことに時間を使いたくないという傲慢さがあるので、最低限取り繕ったり無視したりと苦労する。

それに研究には、頭の働き、ひらめき、思考能力、分析能力、まとめる力、同時に多様なことを処理する力、こまごまと作業する根気、持続させる時間の長さ、間を置いた後の戻りのスムーズさ、精神的安定などが必要とされる。

記憶力、眼、耳、立ち居振るまいの身軽さ、億劫がらない事、など、など。ことごとく加齢に伴って失われるのが常識の事態に逆らわなければならない。そのためには、食事の留意、運動、体の定期的補修が必要である。

 

この頃、ずっとやっている太極拳(2004以来)、水中ウォーク(2002以来)、背骨コンディショニング(2011以来)などスポーツクラブでやれることはもちろんだが、週1回のチラシポスティングなどと兼ねる散歩や反原発パレードも身体的運動の一つとカウントし、特養老人ホームへの傾聴ボランテイア往復(坂道)もそれに加えている。

しかし反面、無駄に疲れることは避けなければならないが、そうもいっていられないのが日常である。

眠くなる。そういう時は時間にかまわず寝るしかない。

睡眠のコントロールは難しい。寝る時間に、興に乗ったらとてももったいなくて寝られない。そしてその反対の興に乗ったのに、他のことで中断しなくてはならないこともある。なかなか乗らず待たなければならない時もある。

数日前、もう20年以上もお世話になっているホームドクターと研究継続に関する話していたら、「もうピークは去っているんだから」という表現をされた。「私はそういう考えをしない」と反論したら「これまでの経験や蓄積を生かして工夫すればいい」と言い変えられた。結局、自分が切り拓くということだ。何だって、これまでも「私の前に道はなかった」わけだから。

 

八王子には、1月の市長選から半年を経て今年2度目の選挙が近づいている。そして東京にはその次の選挙が待ち構えている。

そのための社会的活動時間も考慮に入れて、今年後半の時間配分には慎重でなくてはならない。

もう前半は、早くも終わった。

 

 

 

 

 

 

 

| 近況 | 01:09 | - | - |
都立立川短大の同窓会「こぶし会」最終総会に思う

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教員へのプレゼントのお花。立川短大の思い出とともにー

 

2016年6月18日、私の2度目の職場、都立立川短大の最後の同窓会が開催された。教員を含めて約500人参加。

私の最初の職場、北星学園女子短期大学を5年勤めて助教授の時辞して札幌を去り、5つの大学・短大・専門学校の非常勤をかけもちした1年の後、1974年に講師で採用された常勤の職場が、誇り高き都立立川短大で、私は都の職員となった。

35歳から50歳まで15年間、そこで働いた。教育と研究、子育て、1981年、クラーラ・ツェトキーン研究のためライプツイヒ、クラーラ・ツェトキーン教育大学への都費派遣短期研修、博士の学位取得(1984年、北大)、後に日本家政学会賞を頂くことになる生活時間共同研究、両親との別れもこの職場にいたとき経験した。

 

女性文化研究所の仕事と大学院生活機構研究科という博士課程の担当を請われて昭和女子大に異動してからの20年は、この短大の事は思い出す暇もない生活だったが、昭和女子大で働きに働いて定年の後、私は、私を形成した2つの短大を改めて感謝の念で思い出すようになった。

 

立川短大の15年間で、私のゼミで卒論を書いた学生は48人。そのうち、17-8人がこの日来ていたのではないか。

年賀状のやり取りは続いているものの、40年から42年ぶりで会ったものの多く、還暦をすぎていた!

でも思い出す。あの時のつぶらな瞳を。ちゃめっけぶりをー。多くの(元)学生が話に来た。

言うことは、あの時「先生はこう言った。忘れない!」「あの科目は面白かった。楽しかった!」「先生の言う通り働き続けました!」「よかったと思っています」「先生の家に行ってごちそうになった」「ほんと?覚えていないなあ」「行きましたよ。ネ」とこもごも言っている。覚えていない。

二次会は、1976年3月卒の比較的古い学年といっしょ。

ゼミ以外の学生たちも、「必修だったから講義は聴きました。あのときのこと覚えています。刺激的でした。」とこもごもいう。

 

よかったな。こういう学生たちを教えていたなんてー。

ある期の学生とはコンパをやることまで決まってしまった。

 

この短大は、都政に翻弄されながら20年前の名称変更を経て閉学になったのだ。しかし、都立というだけあって、また時代的背景もあって、短大というより大学に近く、教育と研究は本当にしっかりしており、学生の教育環境と教員の研究は財政的にも保障されていた。今ではありえない良き時代だったと思う。

働き盛りのわたしを、形成し、鍛えててくれたこの職場に感謝してもし足りない!

 

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ところで、イチローがこのところ面白い。「高み目指し続ける42歳」「野球のための24時間」「積み重ねの結果」「敵地球場 やまぬ歓声」。

 

私の研究は?「研究のための24時間」でなくてはならない。「積み重ねの結果」がなければ物は完成しない。

今年、決心して、1日も怠らずに来た。

しかし、最終「こぶし会」の日、会った卒業生の顔ばかりちらついて、半年目にして初めて破ってしまった。

最終手段としての「ふろ場に本を」持ち込まなかった!

こういうことだから、だめなのだ。イチローをまた見習おう。

 

 

 

| 近況 | 00:03 | - | - |
カラヴァッジョ展を観てー完成度の高さに圧倒される!
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気にはなっていたけれど、本場主義というか、現地主義の私は、1993年にフィレンツィエのウフィツイ美術館で確かに何点か観たし、どこか忘れたが、西欧の美術館で何点か観たことがあるという思い出を胸に、この展覧会を観に行かないことにしようと思っていた。でも行ってしまった。
1993年夏は、フィレンツィエでISI(国際統計学会)の大会があり、アカンパニイ・パースンとして気楽に出かけたのに、その大会の一セッションで、まともに「ジェンダー統計」に出会ってその電撃に打たれた忘れ難い夏であった。
イタリアもフィレンツィエも2度目だったけれど、カラヴァッジョを漠然と意識したのは1993年ウフィツイ美術館だったと思う。
今回行ってよかった。「バッカス」も「メドゥーサ」も、その他見たことがある、あるいは初めて見る沢山の絵、それに彼の作風を継ぐ
カラヴァジェスティと呼ばれる画家たちがあった。

何が良かったかは、絵について特別の教養があるわけでもない私はどう表現していいかわからない。
この頃は、いや、あるテーマと取り組んでいるときは大体そうだが、絵であれ、音楽であれ、建築であれ、他人の研究書であれ、何でも自分に引き付けて、どうやって構想し、組み立て、完成させたのか、その完成度は?と思ってしまい、カラヴァッジョには、これまで感じたことがないほどの完成度へのあこがれをいだいたのである。

今、資料を集めて、ぐしゃぐしゃにして、いろんなことに「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と思っているうちは、完成なんておぼつかない。それなのに、この絵の完成度はどうだ!いや、世界の天才と比較しても無理。なんで比較などするんだ!おろかなことだ。

「なぜ?」はほどほどにして「何のために?」を上に置こうではないか!そっちが大事だ!
もう何度も書き直した序章に整理して書いてある。しかし「なぜ?」をかたづけなければ、「何のために?」も問題になりはしない。年譜や年表をもう何百回もスクロールして、先行研究を確認して、新しい発見をしたとき、「こんなこと考えているのは、私だけ!」と喜びを感じることは何度もある。その喜びが、研究を進める原動力になることはある。しかし、それにしても「なぜ?」がまた頭をもたげる。
それ自体大事なことだ。それを一つ一つ緻密に解決し、全体を俯瞰的にまとめあげていけばよい。
俯瞰ね!難しい。あれこれ落としてしまうのではないか。落とさないように細心の注意をはらえ。
とにかく、さっさとやれ!

それにしても、ある程度進んできた、今の研究テーマも一筋縄ではない。
カラヴァッジョを観に行ったばかりに、高い憧れを抱きながら、これまでのように、いつものやり方で、こつこつやるしかない、というところにまた落ち着いてしまった。


 
| 近況 | 01:08 | - | - |
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