伊藤セツ研究BLOG

このブログは、当初は、勤め先の教員紹介に付属して作成されていたホームページ。定年退職後は、主に、教え子たちに、私の研究の継続状況を報告するブログに変えて月2-3回の更新。
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続・マルガ・フォイクト『クラーラ・ツェトキーン 戦争の手紙』 ”Clara Zetkin  Die Kriegsbriefe"

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編者マルガ・フォイクト氏の「刊行に寄せて」を読むと、この手紙集の構想は、2007年にベルリンで持たれた、ローザ・ルクセンブルク財団主催のクラーラ・ツェトキーン生誕150年シンポジウム「クラーラ・ツェトキーンとその時代」に端を発しているとのことである。このことを私は初めて知った。このシンポジウムには私も出席していたが、その時マルガ・フォイクト氏には会ってはいない。フォイクト氏をはじめて知ったのは、2006年に東北大教授(当時)大村泉氏の紹介で、ベルリンのSAPMOでお世話になったロルフ・ヘッカー氏が、2011年再びSAPMOに行った私に紹介して下さったときであった。

 

フォイクト氏は、これまで、ツェトキーンの生誕100年を記念し、1957-1960年にかけては、3巻本の選集、1957年のレーニン、クルースプカヤとツェートキンの文通を冒頭に置く『レーニンの思い出』が出版され、その他1970年代に2点ほどの出版があるが、クラーラの手紙集のみが欠けていたことを指摘している。それは事実であり、私も不便を感じていた。

フォイクトによれば、ツェトキーンの手紙遺品は、1914年から1933年だけでも1000通以上の多くにのぼるが、本書は、第一次世界大戦100年にあたり、1914年から1918年までの戦争の時代に関する多くの学術的出版物を補足するものであり、本手紙集の中に、戦争に反対し平和のために戦ったクラーラ・ツェトキーンの政治的活動が反映されているという。まさにその通りであろう。そのあと、2014年に、別目的でドイツに行き、ミュンヘンの書店を覗いたことがあるが、1914年の第一次世界大戦に関する出版物が多く並んでいたのは印象的であった。

 

フォイクト氏は、本書は、国内では、ローザ・ルクセンブルク、フランツ・メーリング、カール・リープクネヒト、国際的には、イネッサ・アルマンド、アレクサンドラ・コロンタイ、へレーネ・アンケルシュミット、そしてアンジェリカ・バラバーノフへの、1914年8月から、1918年11月までの172の手紙と、27の葉書、電報等、その下書きやノートを収録したものであり、それらは、先に書いたモスクワ、ベルリン、アムステルダム、コペンハーゲン、ストックホルム、スイスのアルヒーフや図書館に在庫しているものから探し出したものであるといっているが、ローザ宛は1918年11月17日付け1通で他ローザ関係10通は秘書のマチルデ・ヤーコブ宛となっている。この重要な手紙は実は1969年に公表されていたと解説されていた。それなのに私は今回始めてみたのである。自分の研究の至らなさを思い知らされる。

 

編集方針について、フォイクト氏はこまごまとした説明を行っている。例えば、手紙の中での強調文字や、補遺の手書きの補充は、印をつけ、イタリックで表されるとか、手書きの手紙の判読できない箇所は[判読不可]と明記するとか、その他その他、多くの項目について説明している。もう気が遠くなるような仕事である。

この手紙集は、クラーラ・ツェトキーン研究にとって以上に、第一次世界大戦中に、反戦勢力がどのような努力をしたかを示す重要な資料を提供しているといえよう。

マルガ・フォイクト氏が本書の編集にかけた膨大な時間とエネルギーに敬意を表する。

今、私が勧めているのは、対象は日本。それなのに、まあなんと時間がかかることよ!!

| Clara Zetkin 関係 | 00:56 | - | - |
マルガ・フォイクト『クラーラ・ツェトキーン:戦争の手紙』の刊行を祝う

 

11月3日に、「送った」というメールがベルリンのマルガ・フォイクトから届いた。そのマルガ・フォイクト編『クラーラ・ツェトキーン:戦争の手紙(1914-1918)』カール・ディーツ出版(ベルリン、2016.10、559頁、€49,90)が、今日届いた。いかにもドイツの専門書らしい、重厚さ、私がいつも驚嘆し、2013年の拙著『クラーラ・ツェトキーン―ジェンダー平等と反戦の生涯』(御茶の水書房)にもその形式を取り入れようと悪戦苦闘した、見事な構成(この本の場合は、目次、謝辞、献辞、手紙本文と特殊な表現への補足説明と詳細な脚注、補遺、年譜、編者の刊行のことば、関連専門家のエッセィ、略語一覧、使用された当時の新聞・雑誌一覧、検索文書館一覧、地名索引、出現する人物の生年没年および解説とその索引、編者紹介)に接し、感激もひとしおである。

クラーラの手紙の初めての収録が、「戦争」に関わるものであったことは、第一次世界大戦から100年を経た今日、実に時宜を得ている。

もっとも「開戦100年の2014年に出したい」と、2011年ベルリンでフォイクトに会ったとき云っていたのだった。

編者のマルガ・フォイクトは、1953年生まれのスラヴ語・文化研究者でもとは専門的図書館司書。1990年まで、ベルリンの独ソ友好センター館内ロシア図書館の責任者だったという。両ドイツ統一後旧東ドイツの知識人と同じ運命にもまれながら、2000年以降はフリーランスで、さまざまな企画に携わり、ベルリンのクラーラ・ツェトキーン資料館の仕事に関ったりしていて、クラーラ・ツェトキーンの初めての手紙編集という大きな企画を単独で手掛けるに至った(詳細は別の機会に)。

内容をみると、クラーラの1914年の手紙31篇、記録4点、1915年の手紙62篇、記録3篇、1916年の手紙32篇、記録2篇、1917年の手紙、51篇、記録1篇、1918年の手紙32篇、記録1篇が収録されている。これだけの手紙を、フォイクトは、15の文書館(ドイツ7か所:ボンのフリードリヒ・エーベルトStiftung、カールスルーエ、ポツダム、コブレンツ、ハンブルク、ヴュルテンベルク、ベルリンSAPMO)、コペンハーゲン、ストックホルム、アムステルダムのIISG、モスクワRGASPI、スイスのベルン2カ所とチューリヒのスイス社会文書館、ウィーン)を尋ねて収録している。

私は手紙に注目していたわけではないが、上記の文書館のうちボンのフリードリヒ・エーベルトStiftung、ベルリンのSAPMO、アムステルダムのIISG、モスクワのRGASPI、チューリヒのスイス社会文書館は行っているが他は重なっていない(前掲拙著 913ページ)。

次に編者の「刊行に寄せて」を紹介しなくてはならないが、今日届いて今日の事で、手が回らない。フォイクトと私は、2011年以来メール友達であり、2013年に出た拙著で、フォイクトへの謝辞と、この手紙集の予告を、前掲拙著 911ページに書いてある。

フォイクトも、謝辞(13ページ)と、「刊行に寄せて」(489ページ)に、1990年以降だされたクラーラの伝記としてフランスのジルベール・バディア(1993)、ドイツのターニア・プシュネラート(2003)と、日本のセツ・イトー(2013)と私の名もあげてくれている。

夕刻、宅急便が届いた。なんと、私が別途発注していた、フォイクトの同じ本だった。5,692円とのことである。

2冊も同時に手にして、心の中はまた炎が燃える思いである。

 

下の写真は、2014年4月、寄贈した拙著を前に、左からマルガ・フォイクト、ザンドラ・ベイヤー(日本学)、アンネリーゼ・ベスケ(アウグスト・ベーベル選集の編者)。上の写真はマルガのメールの添付ファイル。書店に並ぶ自著であろうか。

 

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